[供養] 医学部の子に間テクスト性を説明しようとした時の文章

供養です 理系の子向けの説明ですし、色々とツッコミは有ると思われますがご容赦ください。

ジュリア•クリステヴァを勉強していた(であろう)医学部の子の、“全ての言語が引用でしかないのなら、私たちはオリジナルの言葉を使うことは一生なくて、全部借り物の言葉、つぎはぎの思考なのか?”という質問に対して、文章で答えた時のものです。


間テクスト性について

Abstract: 間テクスト性や、エクリチュールといった、現代のあらゆる読みの論理の基礎に置かれているような語は、その前後の文脈によって、内包する意味が微妙に異なる。

まず、僕の構造主義と間テクスト性についての適当な説明のせいで、誤解をいろいろ招いていそうなことをお詫びしたいです。申し訳ないので、僕が知る限りの正確な知識を書いて渡そうと思います。ただ、僕もただの若造なので、詳しく知りたかったら文献をあたってみるのをお勧めします。

”すべての言語(言葉でしょうか?)が引用でしかないから、私たちはオリジナルの言葉を使うことは一生なくて、全部借り物の言葉、つぎはぎの思考なのだ” という間テクスト性に関する理解は、はっきり間違っているとも言えず、かと言って諸手を挙げて賛同できるかと言われると、う~~~ん…という感じです。このような微妙な態度を取らざるをえないのは、”間テクスト性”、”構造主義”、”コード”、”ポスト構造主義”、”エクリチュール”といった諸概念が、それぞれ絡み合いながら、非常に幅のある意味を持っていて、辞書的な一つの定義だけで語られないものだからだということができます。金子さんの意見について、完全な言及を試みると、これらの語の広がりについての理解の共有は不可欠だと思われます。以下の文章では、間テクスト性を中心としてこれらの語にについて説明します。

ではまず、今回の話の中心である、間テクスト性について、”文化理論用語集”における説明を追ってみたいと思います。

間テクスト性(Intertextuality):個々のテクストは必然的に他のテクストに関係し、それらの意味は、こうした諸関係がいかに認識され注目されるかによる、暫定的で多元的なものだということを示唆する用語。(中略)ジュリア・クリステヴァは、初期の論考で端的な論理化を行なった。(中略)「あらゆるテクストは引用のモザイクで構成されている。つまり、あらゆるテクストは他のテクストの吸収や変形である。」という論理を見出す。このように間テクスト性は文を作成する手法を表すこともあるが、本質的にいうと、それはある読みのあり方を示す。所与のテクストに内在すると想定される意味に制限されることもなく、またこの意味を「外的な」源泉に求めるのでもない読み方がそれだ。そうした古典的な読み方の代わりに間テクスト性が指摘するのは、様々に編み込まれたテクストの表層を縦断する読み方だ。(後略)

ここでわかるこの語の広がりとして、
1.間テクスト性は、文の作成手法としての意味と、読みの立場としての意味の二つを内包していること

2.読みの立場としての意味の方が本質的で(優位で)、それは古典的な読みの代替となること

が挙げられますね。

ここで言う古典的な読み、とは概ね、作者の意図した情報を読み取る、という読み方のことを指しています。その古典的な読みとのコントラストで考えるなら、間テクスト性は、(正確には、間テクスト性を前提にした読み、でしょうか)構造主義以降の現代的な読みの立場の一つであるとカウントすることができます。そしてさらに、その間テクスト性には、構造主義的な立場によるものと、ポスト構造主義的な立場によるものがあることが、文化理論用語集において指摘されています。

しかしながら、ジュリア・クリステヴァの立てた「あらゆるテクストは引用のモザイクで~」の論理や、間テクスト性の定義自体は、ポスト構造主義下のものであるとカウントされ、なんなら、ジュリア・クリステヴァは、構造主義的な読みの限界を批判した人間である、と哲学史上認識されています。

https://liberal-arts-guide.com/intertextuality/#1-1 ←このへんの議論がわかりやすくなっているサイト)

この矛盾について説明するためには、構造主義が何か?ということを把握しておかないといけません。上のサイトを読めば概略はわかるとは思うんですが、せっかくなので、文化理論用語集の引用をしておきたいです。


構造主義(Structuralism): 構造主義は、フェルディナン・ド・ソシュールが、彼の死後、『一般言語学講義』(1915)として出版されることになる1909年から11年にかけての講義で展開した構造言語学に由来している。(中略)このモデルは1960年代に取り上げられた。その時期それは文学やその他の文化形態について、厳密で非主観的な分析モデルを提供すると思われたのである。(後略)

ここで大事になるのは、構造主義の元は言語学であり、構造主義が目指していた読みとは、ソシュールが提示した構造言語学のモデルの分析範囲の拡張である、ということです。ソシュールの言語学は、ある一時点のはなし言葉についてのルールを観測するものですので(これもおおむねそうという話で、雑な説明です)構造主義の目指していた読みとは、文章の意味の内部には、作者の意識とは関係なく、それを形作る規則が存在していて、その規則を観測していこう、とそういう話になってきます。

これが、”その時期それは文学やその他の文化形態について、厳密で非主観的な分析モデルを提供すると思われたのである。”という引用の大体の意味です。

この規則の一つがコードです。コードとは、共時的に共有している習慣や規則を指し、それが文章の意味を形作る規則の一つと数えられたわけです。たとえば、”英語”というのもコードですし、食事マナーであったりとか、文化的な習慣も一つのコードです。他人の文章•思考の意味付け、すなわち読みには、その背景となるコードの理解が必要不可欠で、そのコードに注目し、結びつきを紐解くことで(=構造を理解することで)客観的な分析が可能になる、というわけです。このコードという用語も、元は構造言語学の概念を拡張した用語の一つで、意味には揺らぎがあります。


さて、元の話に立ち返ることにします。クリステヴァが批判した(批判した…?)のは、このような、「文章の意味は、それを形作る規則、特にコードによって生成される」という点です。構造主義者の間では、要素とそれを結ぶ関係性、(文章の解析においては特にコードに)よって、全ての意味を形作りたいという、共通した目的意識があり、その上での読みが上に記したようなものです。これに対してクリステヴァたちは、文章の意味というのは、その文章の内部の規則の観察だけで完結してしまうものではなく、他の文章と常に関連して成立している、流動的•可変的なものではないか?という分析法を提示します。ここからはじまる、他のテクスト(この、”関連性”の前提を共有した読みをする、その対象の文章のことを、テクストと呼びます。)との関連を考えていくのが、ポスト構造主義的な読みということになるでしょう。この考え方に付随して、「すべてのテクストは他のテクストの吸収、変形である」の文言がついてきます。すなわち文の生成手法としての間テクスト性です。

確かにこれは、構造主義的な、ルールのみによって定まる読みの世界を否定してはいます。そもそも読みが流動的に変わり続ける都合で、ルールや規則によって意味が定まっている様、みたいなものにはそんなに興味がありません。ですが、この二つの理論は、「作者の意図したもの、とは別に読みを行う」「その読みが、個人の感性•趣味によってそれぞれ存在する、”観賞”ではなく、共有可能な”分析”である」という根本を共有しています。その点において、この二つは非常に似た概念で、古典的な読みと対比されます。見方を変えれば、この二つは、根本的な前提を共有した読みにおける、分析方法、価値付けの方法、着眼点、レイヤーの違いだということです。古典的な読み、つまり鑑賞の世界での、個人の感性に基づく、良いー悪いという価値観から脱したものであることは確かで、論理性が担保されていれば、一つの文章に対して様々な分析が可能です。


こういった前提があって、「コードに沿った構造主義的な間テクスト性の実践」とかが、クリステヴァの論考から後の時代に行われます。クリステヴァが批判した構造主義的な読みのあり方は、より新しい間テクスト性を用いる読みを導入すると、(共有している前提が異なるために)すぐ価値がなくなってしまう、というものではありません。それで、間テクスト性的な、流動的•可変的な読解を、構造主義で用いられてきたコードに沿って実践しよう!とか、そういう読みの立場も後の世で出てきたりする、という話です。ですが、そうなってくると、クリステヴァが初期の論考で指摘した、”文の作成手法としての間テクスト性”は、ほとんど重要視されていないことになります。新しい読みの立場を生み出していくとき、間テクスト性の文の作成手法としての側面は、無視した方が都合が良かったのです。このあたりが、文化理論用語集における間テクスト性の説明で、”読みの立場としての意味の方が本質的で”とされている理由だと思われます(多分)。とにかく、後世に受け入れられ、援用される論理としての間テクスト性では、読みの立場としての意味がより濃いようで、その読みの立場も、クリステヴァが初期に構造主義的なものと対比して提示した読みの立場とは、意味が若干ズレています。(より広い読みを許容していると考えられます。(多分)

このように、「間テクスト性」の一つだけでも、古典的な読みと対比して語るのか、構造主義ーポスト構造主義の移り変わりの中での意味や成立過程を語るのか、後に受け入れられた/展開された意味を語るのか、でだいぶ毛色が違ってきます。定義としては一つに定まるかもしれませんが、そこから展開される論理性は複数で、どの部分の論理が用いられるかは、語られ方によって異なります。エクリチュールとかになるとまたこれが顕著で、代表的な意味だけでも、全然違う方向性の二つの意味が存在します。

ここに前回僕が説明したことのインチキがあります。前回では、古典的な観賞、とは別の、現代的な読み•分析法を提示することに終始していたので、構造主義も間テクスト性もコードもエクリチュールも作者の死もいっしょくたにして、”現代的な読み”の文脈の中で語ってしまっています。近代的な、あるいは古典的な読みと比較すれば、確かに全部が、同じ前提を共有した概念ではあるのですが、実際には内部にこのような議論があり、ずっと続けられてきた議論の中で生まれた意味の幅があります。
以上全ての話を下敷きにして、金子さんの意見についての言及をしてみたいと思います。


”すべての言語(言葉?)が引用でしかないから、私たちはオリジナルの言葉を使うことは一生なくて、全部借り物の言葉、つぎはぎの思考なのだ”

まず、これは間テクスト性の定義についての言及だったと記憶しています。

文章作成法としての間テクスト性の定義、その議論であれば、あながち間違いな指摘ではありません。”テクスト”と文章を呼んだ時点で、”関連性”に着目した論理を展開するよ~!という立場表明をしているので、作者の意図を含めた文の作成過程が、他の文章との関連性の中に存在し、それ単体で固有の意味を持つことがない、すなわちオリジナルではない、というのは一つの哲学の立場であり、一つの分析の立場です。が、注意しておきたいのは、クリステヴァの論に寄り添ったうえでの「オリジナルの言葉」は、おそらく、他の何のテクストとも関係を持てないほど意味が他者に伝わらない文章、という意味になってくるので、個人それぞれの考えを表すとかそういうレベルであれば、「借り物の言葉」の組み合わせが私たちの言葉であることは特に問題ではないかもしれない、という点があります。同じ文言を扱っていたとしても、それを”テクスト”として取り扱うときのオリジナルでないことが、日常の情報伝達として、そのことばを取り扱っているときのオリジナルでないことと、必ずしも一致するとは限りません。


読みの立場としての間テクスト性の意味、その議論であれば、金子さんの意見は、言葉の様式が思考に影響を与える、という点で、どちらかというと構造主義のそれに近く(コードの話とかなり似ています)、間テクスト性的な、あらゆる読みが暫定的である(=他のものとの関わり方で変わりうる)、という前提が欠落しているような印象です。そもそも、読みの立場としての話であれば、人の文章が、借り物の言葉の組み合わせであることは、真に問題がありません。文章作成の過程や、本人の思考は、文章に対する分析に直結しないからです。言葉によって生成されたその人の思考を表すオリジナルの意図、みたいなものは確かにあるんだけど、それはそれとして、特定の文言をテクストとして分析対象に据えた時、別のテクストとの関連性は指摘されるべきだよね、とこんな話になってきます。なにかテキスト•コードが人の思考にまで影響を与えているのか、それは考えるべきか、というところは、また別な哲学領域の議論になってしまいます。


あのLINEの場では、あらゆる読みの下敷きとしての間テクスト性を指摘しているので、読みの立場としての意味の方が濃いかもしれません。そうすると、あまり金子さんの意見は正しいものではないかもしれないですね...?(わかんないけど...) ただ、その誤解は、僕の適当な説明、特に構造主義的なものと間テクスト性の意味の幅を教えなかったこと、に依拠しているように感じられたので、お詫びに、色々ごちゃごちゃした説明を混ぜつつ、知りうる限りの正確なことを書いてみた次第です。


僕の知識も曖昧で、不正確な点が多くあるかもしれませんが、理解の助けになれば幸いです。



追記1) 読みとは、この世の解釈可能なものに対する意味づけの、過程と結果のことです。解釈可能なものの例として、ことばや、文化が存在します。”読み”と言っただけでは、それが分析であるのか鑑賞であるのかなんなのか、立場の表明はなされていません。テクスト読解、と言ったり、分析とか言ったりすると、立場の表明と背後にある前提を示唆した、狭義の読みになります。

追記2) 構造主義からポスト構造主義への移り変わり、脱構築の議論は、いまだに僕も全貌を把握していないので、不正確なところがたくさんあるかもしれません。また、今なおその二つの理論の境界は曖昧です。

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