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多様性というからには 

私の母は、アルファベットを知らない。正確には、ABCまでしか分からない。

このことを知ったとき、いいことを知ったと思った。

知らない事実ではなく、こうしたことを知らない人もいるのだと。

世の中にはいろんな人がいるものだと子供の頃から、なんとなく感じていた。

親戚は何かと結婚で拗れたり、父は暴力を振るってきたり。

こういうことを書いていると、本当に大変な子供人生を送った人に失礼になるとは思うが、続けさせていただく。

以下の話を聞いた時、正気の沙汰では無いと思った記憶がある。

父は、よく帽子で殴ってきた。そこで、兄だったか聞いたらしい。なんで帽子なのかと。

いつも被っていて使いやすくて、叩くために帽子をかぶっているのだと。

控えめに言って常人では無い。

よくそんな人が、素直に生きてほしいという願いを込めて名前をつけられたなと。

まあ、不幸自慢をするのは本筋では無い。

世の中には本当にいろんな人がいるなと。

それは、自分も例外では無い。

子どもの頃に、上のようなマイナスな意味での関わりはよく無いが、いろんな人と関わるのは、世の中を知るのにいいことだと思う。

賢い人もいれば、そうで無い人もいる。

正直、時間を守らない、約束を破る、金を返さないなど、ヤバい奴もいる。

それも込み込みで学びになる。

その意味で、小学校とか中学校で公立に行くのは重要な意味を占めていると思う。

学校と社会は、乖離していると言われることもあるが、多様な人がいると考えれば、社会の縮図だと言えるかもしれない。

バイトで、私立の小学校の子どもに勉強を教えることをしているのだが、良くも悪くも育ちがいいところで育っているのだと感じる。

上品な面もあるが、こまっしゃくれた子どもだと感じることも多い。

そういう子どもにこそ、いろんな環境の人と関わってほしいなと思う。

それで、傷ついた方がいいとかそういう極論ではなく、世の中こんな人もいるのだと知ることは、自分を強くする。

大抵のものは飲み込んでも大丈夫な胃の強さを手に入れる。

多様性を知るとは、こういう側面もあるのでは無いだろうか。

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