どんな絶望からも立ち直ることができる 復活の希望

2024年4月7日 ニューライフキリスト教会 礼拝説教で頭に残ったこと

復活の朝を迎えた後の私たちの生き方

もしキリストが蘇らなかったら、私たちの信仰は虚しい
十字架の先に復活があり、希望がある

復活したイエスは、弟子たちにだけお姿を現された
→信仰がなければ、復活を信じられない

この希望は失望に終わることがない
どんな絶望からも立ち直ることができる
失望の向こう側に希望がある

どのような希望をもたらすか

詩篇22:22-23
嘆きが突然賛美に変わる

詩篇30:11
あなたは私のために嘆きを踊りに変えてくださいました

喪失と向き合うのがはじめの一歩

喪失はたとえ自分に非がなくても、自責の念をもたらす

「穴から引き上げてくれた」という表現が繰り返される。

これは、ダビデがアブシャロムに追われた時のことではないか

ダビデは、タマルの事件の時も、アムノンの事件の時も、何もせずアブシャロムを無視し、向き合わなかった。

「私が墓に下っても、私の血に何の益があるでしょうか。」
「私が代わりに死ねばよかった」と思い続けたが、「これ以上、自分で自分を責めても何の益もない」と思えるようになった。

詩篇30:5 「まことにみ怒りはつかの間、命は恩寵のうちにある」

「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある」

もう私は私を裁かない、私はすでに許されている。

後悔の念は自責、裁き

人生の選択も神のみ手の中にある。はたかせて益としてくださる。恩寵のうちにある。

思ったこと

「すべてのことは益と変えられる」という聖書の言葉を知っていても、人生の選択の失敗は取り返しがつかないと何度も後悔の念に囚われる。
しかし、この説教の内容は心に入ってきて、受け入れようと自然と思わされた。




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