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Blue植物化❼友人ミセス・ロビチェク。


パトリシア・ハイスミスの
キャロルを読んでいる。

映画《キャロル》が好きで
3度、ふと、想っては、観て。

原作が読みたくなって。



当然ながら、
映画は、

《本のなかに現れたすべて》

を、描かない。


そんなことをするならば、

その映画は、
ドラマシリーズのように
長くなってしまうし、

観るものを、ラストまで
ひっぱっていく《一本道》が、

ちいさな路地に分かれ、
とりとめなくなってしまう。

(ときどき、路地のほうに
魅力がある映画もある)

映画キャロルは、
素晴らしく、beautifulな
一本道を、

(それは、銀白に凍った
美しい冬の川のような)

わたしに歩かせてくれる。


最初のシーンから
最後のシーンまで

色彩も、ひかりも、音も
声も、すべてが

息をつかせぬほど、麗しい。



が、わたしは、
ほんとうの旅でも


気儘に立ちどまり、
寄り道したり、が、

好き、なので、

《本》のなかの、
小路地へ入り、そこへ
しばらく滞在する。


本を読む愉しみは、
ここ、に、ある。

本は、ページをひらけば
いつでもどこでも読めるのも良い。
10分間だけ、とスープが煮える間に
読むとき、思いがけない深さで読んでいたり、する。




さて、パトリシア・ハイスミスの
《キャロル》は、三人称ながら、

フランケンバーグ、という名の
百貨店で働く、テレーズのまなざしで

しづかに語られていく。


テレーズは19才。

舞台美術のしごとに就きたいと
願いながら、叶わず、

百貨店のアルバイト員として
働いている。


なりたいと思う人間になり、やりたいと思う仕事をするなんて、どだい無理なのではないかと言う絶望

キャロル
パトリシア・ハイスミス著
柿沼瑛子訳
河出文庫p27より



そんな彼女が、

フランケンバーグ百貨店の
社員食堂で目に留めた
50代の、社員のおんなのひとが、

ミセス・ロビチェク。

テレーズは向かいに座る女性の手元に目を向けた。ふっくらとした年齢を感じさせる女の手がコーヒーをスプーンでかきまわし、震えるほど力を込めて、ロールパンを割ってテレーゼと同じ定食の茶色いグレービーソースにぐいぐい押し付けている。手はあかぎれで荒れ、指関節のしわは汚れて黒ずんでいたが、(中略)手を見れば、目を上げなくてもその顔は想像できた。フランケンバーグで働く五十代の中年女性の例に漏れず、絶え間ない疲労と不安に打ちひしがれ、目は老眼鏡の底でゆがみ、頬紅を塗りたくても、その下の灰色のくすんだ肌を隠すにはいたったいない。そんな顔を正視する気にはなれなかった。

キャロル
パトリシア・ハイスミス著
柿沼瑛子訳
河出文庫p13より


なんとも残酷な、
しかし、的確な、


(百貨店の売り子として働く
けっして裕福ではない)

五十代女性の、描写。


たしかに、

何を塗らなくとも
肌が内側から輝く年頃の
娘から見れば、

50代のおんなのひとは、
こう見える。


もうひとつ、
ミセス・ロビチェクを観る
テレーズのまなざしを引用する。

ここで働く中年の女店員の顔に浮かぶ疲労をテレーズに初めて意識させた顔だ。店内に人気がなくなった六時半頃、この女性が中二階から大理石の階段をよたよたと下りてくるのを見かけたことがあった。女性は外反母趾のできた足をかばうように、太い大理石の手すりで身を支えていた。あのときテレーズは心のなかで思わずつぶやいていた。あの人は、病人でもなければ、浮浪者でもない。ただここで働いているだけなんだ。。

キャロル
パトリシア・ハイスミス著
柿沼瑛子訳
河出文庫p13〜14より


若さを喪って尚、
おんなたちが
百貨店で、売り子として

働いている。

贅沢をすることもなく
長い休暇を取ることもなく、

日に7.8時間も、
パンプスを履いて

客の応対に明け暮れ、

疲労は蓄積され、

しかし、
何千時間、何万時間
そこで、働いたとしても、

老いていく先、である
未来には、絶えず、
不安の雲が湧く。


ミセス・ロビチェクは、

2023年に、パート店員として働く
まるきり、《わたし》で、ある。



ミセス・ロビチェクならぬ
わたし、の夜部屋。

足を痛めてしまったころがあり、
労働のあとは、まずは足を休めることが
大切な時間だった。

いまは、通院の甲斐もあり、
筋肉もついてきて、良くなってきた。


当然だが、
映画《キャロル》には、
ミセス・ロビチェクは登場しない。

キャロルが、
本編に登場するまえに
物語を横切った彼女は、

キャロルというヒカリが
現れるまえの、陰鬱な闇で、

しかし、わたしには
愛おしい闇、で、ある。



壮年のころは、
3.4人のひとを雇って
みずからの腕でドレスを縫い、
洋装店をひらいていたという
ミセス・ロビチェク。


(ミセス・ロビチェクDesignの
襟ぐりの、美しいドレス!)


彼女もまた、きっと
再生する、と、感じる。


足の痛みを軽減するため、
改めて、医者に相談し、

例えば、骨粗鬆症の予防や
筋力アップのための食事を
意識して、摂るようになり、

また、ミシンを踏み、

若さを喪ったおんなたちへ
美しいドレスを縫いはじめるかも
しれない。


So  おんな、の50代は

更年期や、子の巣立ち、
親の介護、などが重なり、

もしかしたら、いちばん
《老いている》年代 なのだから。


※わたしは、
ミセス・ロビチェクという路地に
長居をしてしまった。

ミセス・ロビチェクに
友情を感じて、なかなか去りづらかった。


池に散った、百日紅の花びら。
50代は、いろいろなまなざしで
beautifulを発見していこう。



さて、ある出来事から、
Blue植物化を始め、

わたしはいったい
どんな重さなの?と

体重を計ってみた、のは、
今年の7月1日である。


Septemberが来て、
約2ヶ月が経過した。



9.13の今朝の計測は、

体重 49.4kg(-4.8kg)
体脂肪 28.4%(-3.6%)

と、なっていた。


カフカくんのように食べて、

ジブンを調えるために
運動を毎日すこしずつして、

悲しみや不安や無力感や疲労を
感じないために《食べる》をしない

ようにした、2ヶ月。


引き続き、シンプルに
日々を、過ごしたい。


友人のミセス・ロビチェクと

『50代の、低賃金で働く、
わたしたちが、無力感から
まいにち、逃亡しながら
ジブンだけの美しさを
発見していけるか?』

を、こころで、語り合いながら。


*ちなみに、わたしは
身長155cm。






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