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1日の終わりに

(2610文字)

 揚力が足りないブーメランのように、最低限の慣性でかろうじて体勢を維持し、なんとか止まらず堕ちず、自宅のドアまでたどり着く。エンストした車が残っているエネルギーを絞り出して直進するかのように、止まってしまうまではなんとか止まらないように、部屋に入る。
 キッチンの流しには、朝洗わなかった食器が置かれている。帰ってきてから夕食の分と一緒にまとめて洗おうと思っていたやつだ。今日はもう無理だと決めたので、明日の朝まとめて洗おう決心し、汚れた食器を視界からシャットアウトした。
 手も顔も洗わず、ソファに倒れ込む。慣性力すら失われた体は鉛のように重く、意識は泥の沼のように深い場所まで沈んでいく。
 そのまま、眠りに落ちた。

 5分ほど眠ったのち、目が覚める。朝までソファで眠らなかったことは奇跡的だ。キッチンまで歩き、ここぞとばかりコップ一杯の水を飲む。洗っていない食器は視界に入らないようにする。そのまま浴室まで行き、服を脱いでシャワーを浴びた。
 体の皮が1枚剥がれ、目に見えて体重が減ったのではないかと思うくらい気持ちが良い。疲れた体への熱いシャワーこそが、癒しの極地である。

 冷蔵庫からビールを取り出しソファに座る。ノートパソコンを開き、スリープから立ち上げる。数秒でパスワード入力を求める画面になり、急かされるようにログインする。ビール缶の蓋を開ける間もなく、アプリを立ち上げてニュースを見始める。ひと昔前までは、同じルーチンでも、パソコンが立ち上がる頃にはビールを3分の1は飲み終わっていたものだ。テクノロジーの進化は総じて、余暇すら忙しなくさせるようだ。

 トップニュースは、地球の裏側で行われている紛争の話だった。
 人間が考えつく暴力行為のなかで、一国家の戦意を喪失させるのに妥当だと思われるレベルのものが、正義の名の下に行使されているらしい。紛争地域における国家へのダメージとはすなわち、国民の死亡であるようだ。
 行使された方は、一時は戦意を失うかもしれない。しかし従順を装うようなことはなく、相手への恨みとともに戦意は復活する。先にダメージを受けたことを免罪符にして、暴力は振るい返される。そのような応酬が繰り返されている。すでにどちらが先に仕掛けたのかは、曖昧になっている。
 ニュース番組は、交戦状況となっている市街の映像とともに、本日の出来事をキャスターが読み上げている。その後、戦下で暮らす四人家族にスポットをあてた映像となった。この戦争が如何に悲惨なものか、そんな悲惨な中で、どのような覚悟を持ってこの脅威と共に歩んでいるか、それらが訥々と語られる。
 個人にスポットをあてることで、戦争状態の悲惨さ、特異性を訴えるという点では、成功していると言えよう。

 個人の戦争体験を、パソコンの画面越しとは言え直視するのは、精神衛生的にあまりよろしくない。自分がこの戦争を直視しなければならない差し迫った理由は現状ないし、これからもないと思う。地球の裏側の悲惨な出来事に思いを馳せるのは、言ってみればボランティアみたいなものだ。
 そう思って自分を納得させて、チャンネルを変える。クイズ番組だった。見たこともない司会者と見たこともない回答者が、1対1で向き合ってクイズをしていた。なにも考えずに視聴できるのは、今日くらい疲れている場合はたいへんありがたい。得られるものが何もないという状態は、このご時世では貴重ではないだろうか。

 地球の裏側で行われている暴力について考えてみる。
 あのレベルの暴力に直面したことは今までない。これからも、たぶんない。そもそも、国家レベルの一方的な暴力の行使を受けるということが、この国に暮らしていると経験することはない。
 そいういえば小学生のときに上級生から喧嘩を売られたことはあるが、あれと同じだろうか。あのときは反射的に反撃したが、テレビの中の戦争は、一概に反撃すれば良いというものでもないような気がする。きっと、自分一人が動いても何も変わらないのだろう。一人の人間が使命感を持って反抗したところで、より大きな力で蹂躙されるだけだ。自分に売られた喧嘩であれば自分でコントロールできるかもしれないが、そうではない。
 一方で、たとえどんなに大きく争うことができない力に対してであっても、各個人は各々が反射的な行為を何かしら行っている。それら反射的な行為の集合が今の状況なわけで、そう考えると誰もが何もせずにただ蹂躙されているだけではなさそうだ。

 画面の中の人たちは逃げ惑っていた。
 自分は疲れた体を癒すかのようにビールを飲んでいる。
 戦争や紛争のニュースを見るたびに、自分には驚くほどできることがないのだということを、思い知らされる。
 地球の裏側で自分事ではない戦争に巻き込まれている人間と、そのニュースを見て小学生の頃の喧嘩を思い出している自分は、あまりに違いすぎる気がする。物理的な距離以上に、遠いところにいるのではないか。それは、自分が想像をすることでしか、相手のことを理解した気になれないから。
 この距離、この非対称性を、なんとか埋めることはできないだろうか。
 この戦争に自ら関わっていくような行為をすれば、埋めることは可能だろうか。何も考えずに関係団体に飛び込むのもありかもしれない。

 急激な睡魔に襲われる。身体から急にエネルギーが抜けていく。ベッドに移動するのも億劫だ。
 銃弾に怯える人たちがいる一方で、ビールを飲んでテレビをつけながら眠りに落ちる自分がいる。世の中の非対称性は、目に見えない壁が周囲にあるような、“狭さ”のようなものを感じさせる。圧迫されそうなくらい狭いのは自分の方で、その壁を作り出しているのは自分自身に他ならない。壁を作り、外側とは断絶し、見えないふりをする。守られているからこその窮屈であると言える。
 その壁は、洗っていない食器であったり、起動がはやいノートPCであったり、つけっぱなしのテレビであったりする。
 これから眠りに落ちる自分は、明日の朝になっても、今この瞬間抱いた想いを持って目覚めることはできるだろうか。一度電源を切ることで強制終了してしまうアプリのように、何もなかったかのようなまっさらなデスクトップのような気分で目覚めるのだろうか。
 そういえば、明日の朝こそキッチンの食器類を洗わないといけないな、と思いながら、意識が遠くなっていった。

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