その人の名は祈(いのり)  その1      モーツアルトピアノトリオ 

その人の名は祈(いのり)。
1925年4月に治安維持法が制定され、大正デモクラシーで高まりを見せていた民衆運動に影を投げかける中、祈(いのり)は7人兄弟の末っ子として瀬戸内海に程近い小村で生まれました。その時、父親はすでに54歳で陶芸家をしながら高等女学校で音楽教師をしていていました。母(ひさ)は会津の出身。ひさの父親は旧会津藩士で西郷隆盛ら薩摩藩士との西南戦争のおりに戦死しました。その残された手紙に、『この戦いには戊辰戦争の復讐で行くのではない。再び愚かないくさをしなくて済むようにするためである。』とありましたが、母からは手紙は彼の本意ではなく、復讐の想いに燃えている自分の気持ちをおさめるために書いたものだ、と聞かせられてきました。祈の父の叔父(大叔父)は江戸末期に攘夷に反対したため、藩内の吉田松陰かぶれの者どもに暗殺され、祈の祖父を始めとした親族は明治6年に仇討ちが禁止になるまで、手を下したものを探してかたき討ちの機会を狙っていたそうです。祈という名は、戦争の影が少しずつ日本を覆いつつあるのを感じた父母が、江戸末期から明治初期にかけて無念の死を遂げた祖父や大叔父たちの冥福を祈ってつけたものでした。
 
祈は父が通っていたメソジスト系の教会に幼いころから通い、宣教師から英語と音楽特にピアノについてキリスト教以上に熱心に教えを受けました。他の兄弟たちも教会に通いアメリカから来た宣教師の影響を強く受けて育ちました。家では、双子のように育った1歳上の兄がチェロを、父と次兄がバイオリンを、祈がピアノを演奏し、家族全員で宗教曲を歌うことがよくありました。会場を借りて家庭音楽会も催しました。母だけは熱心な仏教徒で、琴の教師もしていましたので、家庭音楽会では弟子たちと琴の合奏もしました。
 
祈は高女を卒業後、本格的に音楽、特にピアノの演奏技術を学ぶために東京音楽学校へ進みした。東京音楽学校では、作曲とバイオリン演奏で抜きんでた技能を示していた男性がいて、モーツアルトのバイオリンとピアノのためのソナタを一緒に演奏するうちに、いつか強く惹かれるようになりました。あるとき彼から『僕の今の名前は日本名だけれど、半島の京城出身で正直日本人はきらいだ』と言われ祈はひどく動揺し、1歳上の兄にそのことを伝えると、『人を好きになるのに、出身は関係ない。しかし、どんなに人を好きになっても越えることが難しい障害がというものがあることは覚悟しなければならない。その障害をどう乗り越えるかは祈自身の問題だ。』というのが兄の答えでした。
兄は祈の仲の良い友人を密かに思っていましたが、彼女は兄をつとめて避けるようにしていました。彼女もまた兄を好いていましたが、華族の娘であるため、いずれ親が決めた縁談に従わなければならないのがわかっていたからでした。やがて、東京音楽学校に学ぶ祈の元に、親の決めた縁談が決まったと知らせが届きました。
 
兄は彼女のことを忘れるためか、陸軍士官学校へ入学し、士官となり戦場へ向かいました。兄が戦場に向かう数日前に祈の元を訪れ、祈と半島出身の彼と3人でモーツアルトのピアノトリオを楽しみました。兄は彼に対して『君は招集されていないが、招集されても祈のために決して死ぬな』という言葉を残して行きました。敗戦近くに兄の戦死広報が届きました。ガダルカナル島で戦死していました。しかし、通知以外に何も戻ってはきませんでした。
 
ある日、祈は彼から数枚の楽譜を受け取りました。彼が作曲したピアノ曲でした。『僕が戻らなかったら、僕だと思って弾いてくれ。』彼にも赤紙が届いたのでした。その後戦場に向かって、そのまま消息が絶えました。祈は大切な二人を戦争に取られ、残ったのは楽譜だけでした。

(その人の名は祈(いのり)  その1 モーツアルト・ピアノトリオ)


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