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1982年、春。ジョーン・ジェットと中森明菜と高校演劇。HOKURIKU TEENAGE BlUE 1980 Vol.22 中森明菜『スローモーション』、Joan Jett & The Blackhearts

■ 中森明菜『スローモーション』  作詞:来生えつこ 作曲:来生たかお 編曲:船山基紀 発売:1982年5月1日
■ Joan Jett & The Blackhearts『I Love Rock'N Roll』  作詞作曲:アラン•メリル 発売:1982年1月19日(米国)

花のアイドル1982年組とともに始まった高校生活。

1982年、春。僕は高校に入学した。

高校へは、まず最寄りの国鉄の駅まで10分ほど自転車を走らせ、その後20分くらいをかけて列車に乗って金沢に出る。金沢駅からバスに乗り換えて、さらに20分から30分。トータル1時間ちょっとの道のりだった。

中学の時は徒歩で15分くらいのものだったから、起床時間は一時間以上も早くなり、毎日これを繰り返すのかと入学早々早くもうんざりとした。

けれど、田舎育ちで金沢市内にさえほとんど出かけたことのなかった僕にとって、バスの窓からみる「大都会」金沢の景色はなにもかもが新鮮で、これから始まる高校生活にわくわくしていたのも事実だ。

バスは金沢駅を出ると、武蔵が辻の交差点を曲がり、近江町市場を左手にみながら、やがて香林坊、片町という繁華街へと入っていく。大きなデパート、飲食店のネオンサイン。それらを眺めているだけで胸が高鳴った。

金沢の繁華街の代名詞である片町のスクランブルには、当時ヤマチクというレコード店があった。僕らの年代にとってはVANVANと並び、石川県の音楽文化、レコード文化を支えてくれた馴染み深い存在だ。

入学してしばらく経った頃、その外壁に大きな宣伝看板が出された。店舗全体を横断するように曲名と歌手名が掲げられていたので、嫌でも目に入った。

デビュー!『スローモーション』 中森明菜 とあった。横には本人と思しきとびきりの美少女の写真が大きく添えられていた。

これだけプッシュされているのだから、相当な期待の新人なのだろうと思った。すぐに『ザ・ベストテン』とかにも出てくるんだろうな、と。

けれど、テレビ等で「中森明菜」なる新人歌手をみかける機会は不思議なほどなかった。時代は空前のアイドルブーム、「花の82年組」デビューラッシュ期である。石川秀美、堀ちえみなど多くの新人歌手がテレビ画面を賑わせていた。

民放二局時代という北陸ならではの特殊な事情もあったのかもしれない。それでも彼女のデビュー当初におけるテレビ的な露出は少なかったという記憶だ。「ベストテン」に登場することもなかった。求めてアイドル歌謡を聴くことも少なかったので、結局僕が『スローモーション』を聴いたのは『少女A』がヒットし彼女が大ブレイクを果たした後のことだ。

1982年春の時点では、今では信じられないことだが「どれだけ宣伝してもダメなこともあるんだろうなあ。せっかくデビューまでこぎ着けたのにかわいそうに」などという風に中森明菜のことを思っていたのだから可笑しい。

彼女と共通の話題を作るため演劇部に入部。

演劇部に入ることは、入学前から決めていた。

理由は単純で、当時遠距離恋愛中の女の子がいわゆる演劇少女で、「高校でも演劇を続ける」と言っていたからだ(この顛末については、よろしければVol.2「中学の卒業式後に決行した人生初の告白」編をお読みくださいませ)。

それでも、いきなり演劇部の扉を叩く勇気はすぐには湧かず、なかなか足が向かなかった。入学から一、二週間ほど経った頃、勇を鼓してようやく演劇部の練習場所である2年の教室の近くまで行ってみた。

もしも部員が女子のみだったら、さすがにそこに混じろうという気はなかった。しばらく稽古場に入っていく部員を眺めて、ひとりでも男子がいるなら入部しよう。そう思っていた。

階段の踊り場でうろうろしながら、教室の方を見上げた。すると、すぐにひとりの男子が教室の扉を開け、昼なのに「おはようございまーす」と言いながら入っていくではないか。

「よかった、男子もおるんや!」

安心した僕は、その男子に続くように教室に入り、おそるおそる「入部希望です」と告げた。

さきほどの男子が「おお!マジかいや!」と大声を上げて近づいてきた。

やはり男子部員は少ないらしく、一学年上はゼロ(籍を置いている生徒はいたが活動はしていなかった)。今年もそうなるかと、みなが思っているところにいきなり僕が現われたわけで、それはもう歓待された。

「おお!」と叫んだ男子は3年生でG(ご本人の了承を得てないのでイニシャル表記にします)という名前だという。しかしそれはクラブネームというもので、全員がそれぞれニックネームを持ち、その名で呼ぶ合うのが慣例らしいことを知った。

「なら僕は『ジョン』がいいです。ジョン・レノンが好きなんで」と言うと、「いや、それは自分で決めるんやなくて、みんなで話し合ってつけるんや。…けど、まあ、せっかく入ってくれた男子部員やしなあ。特例ということで、まあ、それでいいか」ということになり、僕の部内での名前はジョンに決まった。

ちなみに演劇部のクラブネーム文化というのは当時全国的にあったものらしく、関西の高校に通っていた彼女の演劇部も同様だった。しかし、漫画のキャラクターやお菓子の名前といった、どちらかというとファンシーな命名が多かったウチと異なり、彼女の方はたけし軍団よろしくなかなかハードな名前をつけられるらしく、口に出すのがよほど恥ずかしかったのか、どんな名前が付けられたのかいくら尋ねてもけして教えてはくれなかった。

さて、新米演劇部員となった僕に、G先輩から最初の指令が与えられた。それは「誰かもうひとり男子部員を探して連れてこい」というものだった。

とはいえ、まだ新学期が始まったばかりで、誰が誰かもよくわかっていない時期である。友人らしい友人もまだひとりもいない。声をかけるにもかけようがないではないか。

…と思っていたのだが、ひとりいた。

休み時間になっても誰とも話さず、ひとり静かに本を開き、孤高な雰囲気を漂わせているヤツが。

友達もいなさそうだし、まだどの部にも入ってないみたいだし。

とりあえずコイツでいいや…。

狙いを定めた僕は「オレ、演劇部に入ったんやけど、まだ部活に入ってないんやったら、一度見にこんけ?」と、彼にはじめて話しかけた。というか、彼に教室でちゃんと話しかけたのは、たぶん僕が最初だったろうと思う。

彼は怪訝な表情を浮かべ、「…いや、興味ない」とにべもなく断ってきた。まあ、それが普通だろう。しかし、僕もそこで引き下がるわけにはいかない。「誰でもいいから連れてこい」という指令が出ているのだ。入部するしないは別として、まずは誰か連れていかなければ任務が果たせない。

数日間、休み時間になる度に誘いをかけているうちに、さすがに根負けしたのか、しぶしぶながら稽古場に来てくれることになった。

しかし、この時点の僕は、当然ながら彼のことを何も知らない。中学時代の彼が小遣いのすべてを映画鑑賞につぎ込み、テレビで放送されるものについては深夜だろうが映画と名の付くものはとにかくすべて観る(当時の彼の家にはまだビデオデッキはなかった)という生活を続ける映画マニアだと知ったのは、しばらく後のことである。

ついでに言えば、G先輩もほぼ同じ生活をしており、そのことを知った彼は「初めて身近で同じ種類の人間に出会った…」と、感に堪えない様子だった。彼の当時の密かな夢は、将来映画監督になることだった。

さて、稽古場にまで来てくれれば、もうこちらのものである。「入部は既定路線」とでもいうかのように彼を紹介し、周囲も僕にしたのと同じように彼を歓待し、彼の方はほとんど何もしゃべらないのをよいことに、なし崩し的に入部ということにしてしまった。

しかし、実は元々がそういうタイプの人間だったわけで、僕に誘われたのは、彼にとっては実は渡りに舟といったことだったらしい。

僕のおせっかいな行動がなければ、彼は誰とも交わらず教室では本を盾にしたまま高校生活を終えた可能性もある。今にして思うと、彼を演劇部に引き込んだのは、僕が人生を通じて為した数少ない善行だったかもしれない、とさえ今は思っている。

もう一つの衝撃的出会い(ヴァージン・ショックbyシブがき隊)、もしくはジョーン・ジェットがやってきた!

そんな生活を続けながら、部活後や週末は、ラジオのエアチェックに勤しんでいた。

当時の僕の最大の楽しみはFM誌に掲載されていたアメリカン・ヒットチャートを片手に、100位以内に入っている曲をエアチェックすることだった。録音した曲には○印をつけ、それが増えていくことに謎の達成感をおぼえていた。

さてそんな1982年の冬から春にかけて、日本でのリリースが未定のまま、するするとヒットチャートを駆け上っていく楽曲があった。

当時の僕の愛読誌『FM STATION』ではキャッシュボックスのチャートが掲載されており、見開き右頁には原題、左頁には邦題が順位とともに掲載されていた(ような記憶が…)。日本でのリリースがない曲は左頁では空欄になるので、それとわかる仕組みだ。

タイトルは『I Love Rock’N Roll』。アーティスト名はJoan Jett & The Blackheartsとあった。

同曲は、その後もランクをじりじりと上げていき、春にはとうとう全米ナンバーワン・ヒットの座にたどりつく。

しかし、この時点においてさえ、僕にとっては未聴の一曲のままだった。

タイトルもかっこいいし、アーティスト名もなんだかかっこいい。まず「ジェット」という響きがいいではないか。ジェット機とか、タイガー・ジェット・シンか、とにかく「ジェット」とつくものは大体がかっこいいと相場が決まっている(タイガー・ジェット・シンのジェットが「クソ」を指していることは当然知らない。知るとなおさらカッコイイと思ったのだが)。

日本でリリースがないということは、新人か無名の存在なのだろう。そんなアーティストが全米ナンバーワンヒットを飛ばすなんてスゴイ!とも思っていた。当時はラナウェイズの名前すら知らなかった。

ようやくエアチェックできたのは、高校に入学してまもなくの頃だったと思う。

「想像してたのと違う!」というのが最初の感想だ。もっとアップテンポの曲かと思っていたのだ。50年代風のご機嫌なブギウギ風な感じだと。ところが、実際にはミドルテンポのブルージーとも感じられる楽曲だった。

それより何より、勝手に男性歌手だと思い込んでいたのが、聞こえてきたのは若い女性の声だったのだから驚いた。笑ってしまうが「ウソ!女やん!」が、まず最初の感想である。振り返って考えれば、我が人生において最初に聴いた女性ロッカーがジョーン・ジェットだったということになる。バンザイ!

それでも「I Love Rock’n Roll」を連呼するコーラス部分は文句なしにカッコイイ!と思ったし、ついでに間奏のギターソロにも痺れた。繰り返し聴くうちに「こ、これは超名曲!」という思いを深くした。

その後も『Crimson & Clover』『Do You Wanna Touch Me?』と立て続けにシングル・ヒットが続き、僕はそれらをわくわくしながらエアチェックした。

特に『Do You~』のMVは、MTV時代初期のやぶれかぶれなエネルギーというか、どう考えてもその場にいた人をアドリブで撮影したとしか思えないキャスティングなど、いきあたりばったり感が素晴らしくて、今でも時折観ずにはいられない。

一時、ジャーニー『セパレイト・ウェイズ』のMVパロディが流行したが、「どうせやるならこっちだろ!!」と思ったものである。

「じゃあバク転の練習でもすっか?」

さて、そんな1982年春。

7月末に行われる石川県の高校演劇の大会に向けて、発表演目が決定された。

「男の部員も入ったし、やっとやれるわ」と、G先輩はすでに原作から脚色したという台本を用意していた。その作品を上演するのが宿願だったらしい。

台本は作業を分担し、職員室で借りたガリ版刷りで作った。「おまえ、字ぃきったねえな!」とG先輩に叱られた。

しかし、G先輩の字はさらに個性的な形状だったのだが。。。

できあがったその台本の表紙には『戦争で死ねなかったお父さんのために 作・つかこうへい』と書かれていた。

「戦争?つかこうへい?」いくつもの疑問符が頭の中を飛び交った。

G先輩はにやりと笑い、「演出は俺がやるから。主役はおまえな」と断定的に言った。

こんなに早く初舞台の機会が訪れるとは。

演劇のことなんて何もわからないのに。

彼女と共通の話題がほしかっただけなのに。

おろおろする僕を尻目にG先輩は続けて「じゃあ、まず…バク転の練習しようか」と謎の指示を僕に与えた。

バク転???いやいや、やったことないし!出来る気もしんし!!

なんでこの人はいつも高圧的に色んな指示をしてくんだよ!!!(と言いつつ、彼女には「役をもらった!しかも主役!」と脳天気な手紙を書いたのだけれど)

これから一体どうなるのだろう?

7月の本番までは、あと3ヶ月もない。

<続きます>

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