見出し画像

昭和の最後にクラッシュギャルズと小人プロレスを観た。 HOKURIKU TEENAGE BLUE 1980 Vol.19 クラッシュギャルズ『炎の聖書』 

■ クラッシュギャルズ『炎の聖書』  作詞:森雪之丞 作曲:後藤次利 編曲:松下誠 発売:1984年8月21日

忘れられない一日。

昭和61年だったか、それとも62年だったか、今となってはそれさえ判然としない。僕が19歳か20歳の頃のこと。日時も場所もあやふやで記憶も断片的。けれど、忘れがたい一日がある。ただ一度だけ、全日本女子プロレスの興行にバイトとして入った日のことだ。

当時、名古屋の大学に通っていた僕は、友人の紹介で「エスカルゴ35」というスポーツやコンサートなど各種のイベントに人員を派遣する会社に登録していた。

コンサートの搬入、搬出、会場整理、野球場でのビール売り、デパートの催事場の設営その他もろもろ、仕事場は多種多様。色んな業種の現場を覗き見ることのできるアルバイトは気に入っていた。

現場が入ると、社員からその数日前(一週間前だったり、前日だったりもする)に電話で連絡がくる。日時や業務内容などの説明を受け、都合があえば「その日は大丈夫です。行きます」と返事をして、当日、集合場所へと向かう。

その日伝えられたのは名古屋近郊での「全日本女子プロレス」の興行の手伝い。会場の設営、撤去、試合中の会場整理などが主な仕事だった。

名古屋球場でのビール売りなど野球関係の仕事はあったが、プロレスは初。テレビ放送を観るくらいで特段、プロレスファンではなかったし、女子プロレスについてはさらに知識がなかった。

しかし、そんな僕でも、長与千種ライオネス飛鳥によるクラッシュギャルズや、彼らと血みどろの抗争を続ける極悪同盟こと、ダンプ松本、ブル中野の存在は知っていた。

民放二局の北陸住まい時代には女子プロレスの放送に接する機会はほとんどなく、テレビで歌い踊るクラッシュギャルズをなかば不思議なもののようにみていたが、名古屋に移り、彼女たちの試合ぶりと会場の異様なまでの盛り上がりを目にする機会が増え、その過熱人気を肌で感じることができた。

主に十代なかばと思われる少女たちの熱狂ぶりはすさまじかった。アイドルや宝塚の人気俳優たちに向けられる熱狂とはまた別の種類のものだが、しかし、その熱量はもしかしてそれらよりもさらに高かったかもしれない。彼女たちの一挙一動に身をよじるようにして叫び、ピンチの場面には泣き声で応援をおくる少女たちの姿は、なかば集団催眠にかかっているようにも思えるほどだった。

宗教的とも思えるような光景に圧倒された。

初めて目にしたプロレス興行の舞台裏。

さて、当日である。

会場名はすでに記憶の彼方(稲沢市民体育館だったような気がするが違うかもしれない)だが、全日本女子プロレスの巡業バスよりも早く会場に着くために、早朝にエスカルゴの社員の車で移動した記憶がある。

駐車場に着くと、まだ巡業バスや機材車は到着しておらず、僕らは車の中で仮眠をとりながら待つことになった。

やがてそれとわかるバスが到着し、何人かがバスから降りるのが見えた。そのうちのひとりはダンプ松本のようだった。試合用のメイクはしていないが、体型はまちがいなくそうだ。

彼女は小型犬を胸に抱いていた。「ダンプ松本が犬を抱いてる!」とわけもなく興奮した。普段試合やテレビのバラエティで目にする姿とはまるで違う雰囲気だ。

と、犬の頭を撫でながら、笑顔でダンプ松本と談笑を始めた女性がいた。

「長与千種だ!」と思わず声を上げそうになった。オフモードの完全にリラックスした姿だが、それでもスターオーラのようなものが漂っている。

長与千種とダンプ松本がすぐそこにいる。そのこと自体にも興奮したが、リングで血まみれの抗争を繰り広げているはずの彼女たちが、屈託のない笑顔で話している様子を目のあたりにしていることに興奮した。何か見てはいけないものを盗み見ている感覚である。

やがてリングなどを積み込んだ車も到着し、僕らは会場の設営にとりかかった。

まずはリングの設営から、と思ったが、それはどうやら若手レスラー(もしくは練習生?)たちの役割のようで、彼女たちが手慣れた様子でてきぱきと会場への運び込みから組み立てまでのすべての作業を行っていた。

ということで、僕らは客席の設営などに回った。延々とパイプ椅子を並べているうちに、リングができあがり、そのうちレスラーたちが練習を始めた。初めて観るプロレスラーの練習風景。会場設営をしつつも、興味津々で僕は横目でその様子を追った。

憶えているのは、あるレスラー2人が、華麗な空中技を確認し合うように何度も繰り返していたことだ。その時はアクロバティックな妙技に単純に感心しつつ観ていたが、実際の試合でもその2人が対戦相手として登場し、この時にみた一連のムーブを寸分たがわず披露して会場の声援を浴びていた。

「プロレスの試合というのは、こういう風に作り上げていくのか」と、舞台裏をみた思いだった。聞いてはいたが、実際にこういう「リハーサル」があることに別に落胆はなかった。双方の協力がなくして、あんな妙技が成立するわけがない。

会場設営がひと段落して休憩していると、今度は「物販の準備をするから手を貸して」と声がかかった。声の方に行くと、入口近くに物販エリアを作るらしく、段ボールが積みあがっている。

「今日はよろしく~」と担当者らしき人が現れた。その担当者はいわゆる小人症の人だった。思わず反応に困っていると、その担当者はこちらの困惑など気にする様子もなく、「えーと、じゃあ、まずは荷物をこっちに移動させてくれるかな~?」と慣れた様子で指示を出し始めた。

物販に関しては試合に出ない若手の練習生たちも担当しているらしく、彼の指示のもと、僕らと彼女たちとで物販エリアを作っていった。彼の手際はとてもよく、加えて僕らバイトの扱いもとても丁寧だった。

仕事ができて、人柄もいい。僕はすぐに彼を好きになった。そして、最初に外見だけをみて奇異に感じていた自分を恥じた。

ほどなく開場時間が近づいてきた。試合が始まるまでは、僕は物販の手伝いに回された。客入れの直前まで、件の彼は忙しく立ち働いていた。

やがて客が入り出すと、物販エリアにはすぐに人だかりができた。タオルなどグッズ類がどんどん売れていく。

開場しても彼は売り場に残っていた。が、その態度の豹変ぶりに、またもや僕は大いに困惑することになった。客が商品の購入のために差しだしたお金を横から奪いとろうとして、練習生に頭をはたかれ、「キャッ、キャッ」と奇声を上げて床を転がったりしているではないか。

「ど、ど、どうしたの!いきなり、この人!」

再び困惑する僕を尻目に、いつものことなのか、若手たちは淡々と業務をこなし、合間に邪魔をしてくる彼の頭をはたく。お客さんの方からは大した反応はないというか、やはり反応に困っている感じだろうか。彼はそれを気にすることなく若手たちの合間を縫うように動きまわり、サルのような奇声を上げて奮闘している。

「あなたさっきまで、普通に超てきぱき仕事してたじゃないですか!」

どういう設定なのかはわからないが、彼がある役を演じているのだということはわかった。その切り替えと徹底ぶりに、僕は圧倒された。

いよいよ試合が始まり、僕は物販から会場なかほどあたりに移り、壁ぎわに背中をつける形で場内を見守りつつ、試合を眺めた。

「小人プロレス」の衝撃。

前座の2、3試合が終わった頃だろうか。リングアナウンサーがいきなり声を張り上げた。

「それではこれから、みなさまに小人プロレスで楽しんでいただきます!」
その声が聞こえるやいなや、数名のレスラー姿の「小人」たちがリングに踊り込んできた。そのなかにはあの彼もいた。

一体何が始まるのか見当もつかなかったが、試合は2対2のタッグマッチとしていきなり始まり、すぐに目にも止まらぬスピードの空中戦が展開された。
僕は「小人プロレス」なるものの存在を、この時初めて知った。そして、その妙技に圧倒された。彼らのプロレスは、その身軽さを生かした、華麗な空中技が特色のようだった。

自分の背丈よりはるかに高いコーナーポストにするすると登ると、そこからためらいもせず待ち構えるレスラー目がけてダイビング・アタックをしかける。

その攻防の展開の早さ、身のこなしの華麗さ、織り込まれるコミカルな動き。それは見事に磨き上げられた完璧なショーだった。

素人の僕にも彼らが生粋のレスラーであること、そして、この世界に長年身を置いてきた者だけが醸し出すある種のオーラに包まれているのがわかった。

同時に物販での彼のコミカルな動きにも合点がいった。たとえ物販であろうが、客前の彼は常に「小人プレロス」のレスラーとしてふるまっていたのだ。

正直、この日観た試合のなかで、彼らの試合が一番印象に残った。今ではこの日のメインがどんなカードだったのかも思い出せない。

かろうじて覚えているのは、僕のすぐ目の前をダンプ松本、ブル中野が通っていったこと。その時に、女性の化粧品の良い匂いがふわっと立ち上ったことくらいだw。クラッシュも出ていたのだろうけど、まるで印象にない。

まさに嵐のように始まって、嵐のように去っていった彼ら。けれど、その印象は僕のなかで長く残った。

彼らは一体何者で、どんな人生を送ってきたのだろう?

たった一度だけ目撃した彼らの試合を思い出しては、時々ふとそんなことを思うことがあった。

その後90年代に入ると、「小人プロレス」関連の書籍がいくつか出版され、僕もそれらを手に取り、小人プロレスの歴史や、レスラーたちの来歴、その過酷な人生遍路についての一端を知ることができた。

今でもミゼット・レスラーは存在するが、90年代あたりではすでに試合が成立しないほど、その数は少なくなっていたらしい。

僕が目撃したのは、ほとんどその終焉に近い時期だったわけだ。幸運なことに僕はかろうじて間に合ったのだ。

あの時代をもう一度。忘れらない名曲・迷曲の数々。

さて、ここからは話題を転じて、というか、表題でもあるクラッシュギャルズのデビュー曲『炎の聖書』や、なかばカルト化したスポーツ選手のレコードに少しふれてみたい。

今ではほとんど話をきかなくなったが、昭和の時代、美声のスポーツ選手がレコードを出すのは珍しいことではなかった。時にはスポーツ選手の余技の範疇を超えて大ヒットを記録することさえあった。

代表例が大関にまで昇りつめた関取、増位山で、彼の代表作『そんな夕子にほれました』『そんな女のひとりごと』はそれぞれミリオンセラーを達成している。

そこまでの大成功はまれにしても、当時はスポーツ選手に限らず著名人がレコードを出すケースは多く、抜群の知名度を武器にしたビジネスモデルが成立していたのだろう。

女子プロレスでは、70年代にビューティーペア『かけめぐる青春』が大ヒット。当時小学生の僕も、試合はまったく未見であるにもかかわらず、歌の方は歌詞を暗記してしまうほどにはよく耳にしていた。

クラッシュギャルズのデビュー曲は、『かけめぐる青春』ほどの大ヒットにはならなかったが、それでも当時はテレビ等でよく耳にした記憶がある。

今回久々に聴いてみたけれど、「The 80's」な曲調がなんともいえずノスタルジーをそそる。こういった曲は80年代の一時期にしか存在しない。作詞は森雪之丞、作曲は後藤次利という一流の作家陣が担当している。

歌詞を読むと、当時、森雪之丞が担当していたシブがき隊のテイストが感じられる。「ひとつの夢で結ばれた きょうの俺達 ちょいとハンパじゃないぜ とっとと 消えうせな!」のパートなど、そのままヤックンが歌っていても違和感がない。

この作品が評価されたせいかは定かではないが、森は翌年、プロレスラー藤波辰爾『マッチョ・ドラゴン』の作詞も担当している。

これがまた藤波の絶妙な歌唱によって、謎の魅力に満ちた仕上がりになっているので、ぜひ聴いてみてほしい。一時期この曲を入場曲として海外遠征をしたケンドー・カシン「世界中どこで流しても客が笑う不思議な曲」と表現するのも納得である。

しかし、その後、バブル崩壊とともに音楽業界にはこういう遊び心に満ちた作品を送り出す余裕がなくなったのか、それはわからないが、90年代以降、スポーツ選手によるレコード・リリースはめっきり減ってしまった。

それでも21世紀に入ってからも、味のある楽曲が忘れた頃にリリースされている。

最後にお聴きいただきたいのは、元世界ミドル級チャンピオン、竹原慎二がバラエティ番組『ガチンコ』内の人気コーナー『ガチンコファイトクラブ』でブレイク後にリリースした『下の下のゲットー』である。

一応、ラップなのだけれど、バックのいなたいロック調の演奏がヒップホップ的感覚からはほど遠く、なんともちぐはぐな印象。竹原自身も別にラップが得意なわけでも思入れがあるわけでもない(と思う)。流行りだから以上の動機が感じられないイージーさが、逆にいい味を出している(と思わないでもない)。

またこんな冗談か本気かよくわからない作品を聴ける時代がこないものか。本当にそう思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?