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酒井法子から考える「アイドル冬の時代」の入口について。Hokuriku Teenage Blue 1980 Vol.27 酒井法子『夢冒険』

酒井法子『夢冒険』 作詞:森浩美 作曲:西木栄二 編曲:中村暢之 
発売:1987年11月25日

謎の新人アイドル「サカイノリコ」

「おまえ、サカイノリコって知ってるか?」

名古屋駅の構内で、エスカルゴの社員さん(仮にKさんとしておこう)が、僕に尋ねてきた。聞き覚えがなかったので、「いや~知らないっす」と答えた。

1987年の秋頃、まだ寒さを感じない頃だったから、たぶん10月頃のことではなかっただろうか。

もともとアイドルは詳しい方ではなかった。けれど、そこそこ人気のあるアイドルであれば、どこかで名前くらいは聞いたことがあるはずだ。それがまったくないのだから、いわゆる新人のB級アイドルか?などと、この時は後のスーパーアイドル「酒井法子」のことをそう思っていたのだからおかしい。

Kさんは「まいったな~」と頭を掻きながらそう言うと、「俺も知らないんだよなあ。とりあえずホームに出るぞ」と僕の方を見ることなく言った。

当時の酒井法子の認知度は、この程度のものだった。

「サカイノリコねえ。しかし、なんでそんな地味な売れそうもない芸名つけるかな」とも思った。本名であると知ったのはかなり後だと思う。彼女の所属する「サンミュージック」では「桜田淳子」「松田聖子」「岡田有希子」など、「〇田〇子」が定番だったらしいが、彼女あたりから本名でデビューするケースも増えたらしいというのは、後年ウィキか何かで読んだ情報だ。

いくつかの記事で書いたが、この頃、僕は名古屋のイベント会社「エスカルゴ35」で学生のアルバイト·スタッフとして働いていた。

コンサートの搬入搬出、場内整理が主だったが、様々なイベントの現場に派遣されることががあった。この日は、「サカイノリコ」なるアイドルの現場とだけ聞かされていた。これから何をするのか、どういう仕事内容なのか、まったく知らないまま名古屋駅までのこのこやってきた。気楽なものである。

「〇号車に乗ってるらしいから」というKさんについて新幹線のホームに出た。二人とも「サカイノリコ」を知らないのに果たして首尾よく合流することができるだろうか?と一瞬不安になったが、まったく杞憂だった。

扉が開くと、少し離れた車両から、キャップをかぶりバッグを抱えた中年男性と、十代なかばらしき少女の二人組が下りてくるのが見えた。男性の方はいわゆる「業界人風」。いかにもな二人組だった。少なくとも親子づれにはみえない。

「この二人に違いない」と思ったのはKさんも同様のようで、小走りで彼らに近づくと、さもずっと待っていたかのような体で「おはようございます。今日はよろしくお願いします」と声をかけていた。

4人で近鉄の駅に向かいながら、仕事の内容がなんとなく飲み込めた。サカイノリコなる新人アイドルが名古屋市近郊の犬山市で行われているお祭りのイベント·ステージにゲストとして参加する。その模様は収録され、後日ラジオ番組として放送される予定だ。僕らは彼女たちをイベント会場までアテンドし、終了後はつつがなく名古屋駅まで送り届けるというのが役目のようだった。

犬山市までは車ではなく電車移動だった。件のサカイノリコは、赤いサロペットパンツ(のような記憶が…)に白いトレーナールックでキャップをかぶり、当時流行っていた大き目の(たぶん)伊達メガネをかけていた。新幹線内でも読んでいたらしきファッション雑誌を歩いているときもずっと眺めている。電車に乗ってもそのままだ。マネージャーとも一言も話す様子はなかった。

まじまじと見つめるわけにもいかないので、ぱっと見の印象だが、ごく普通の可愛い女の子という感じだった。丸一日かけて地方のイベントにやってくるのだから、やはりまだそんな売れっ子ではないのだろうなと漠然と思った。

前知識なしで浴びた『のりピー語』の衝撃。

なにぶん35年以上も前のことなので、細部は完全に忘れている。たしか駅から会場までタクシーで移動し、簡単なリハーサルが行われて本番という流れだったと思う。

楽屋にいる彼女に「本番です。お願いします」と声をかけるのも僕の役割だった。呼びにいくと、声をかけるまでもなくちょうど彼女が楽屋から出てくるところだった。そして僕を認めると、条件反射なのかわからないが、「にこっ」とアイドルスマイルであいさつをしてくれた。

この日は朝からずっと無表情で雑誌を凝視している姿しか見ていなかったので、突然のあまりにキュートな笑顔に思わずどぎまぎしてしまった。

「なんだかよくわからない女の子だと思ってたけど、やっぱりアイドルなんだな~。かっわいいな~」と、自分だけのために向けられたアイドルスマイルを思い返して、あとで密かにひとりでにやけていた。

MCに呼び込まれ、彼女がステージに出ていくと、僕の方は当面やることはない。ステージの裏でイベントの様子を見守った。彼女の登場に客席は沸いている。「僕が知らなかっただけで、けっこう人気がある子なんだな」などとぼんやり思っていると、それはやってきた。

「今日はぁ、こんな楽しいイベントに参加できてぇ、のりピーはぁ、も~う、まんもすうれピーでっす♡」

「ま、まんもす? うれぴー?」一気にいろんな?マークが脳内を駆け巡った。「この子は急に一体何を言い出してんの?!」

「な、なに今の!?」と思ったのは僕だけでなかったらしく、ステージ裏のスタッフも何人か「????」という表情で顔を見合わせている。しかし、場内のファンには戸惑う雰囲気はない。ということは、87年秋の時点では、まだまだ「のりピー語」はファン以外には浸透していなかったということなのだろう。

同年代の方々には説明も不要だと思うが、アイドル酒井法子はMCで独特の言語「のりピー語」を駆使するのだ。たとえば「まんもす」は「とても」。「うれぴー」は「うれしい」。まあ大体は、「はずかピー」など語尾を「ぴー」に変えればいいのだが、たまに「すうぃーと やっピー」=「愛してます」などトリッキーなものも混ざるので油断できない。

まったく前知識なく浴びてしまった「のりピー語」の破壊力は凄まじく、理解が追い付かなかった。というか、さっきまで大人しそうな普通の女の子だったのに、この豹変ぶりは一体!

「いや~、アイドルってすごいなあ(つーか、怖いわ!)」と、僕はふたたび謎の感心をしつつ彼女のステージを見守った。

87年は「アイドル冬の時代」の玄関口あたり?

実際には酒井法子のレコードデビューは87年2月。同月には「ザ·ベストテン」にも出演しているので、87年秋の時点ではかなりの人気アイドルだったはずだ。

けれど、この頃にはというか、85年頃を境に僕自身はアイドルにかなり疎くなりつつあった。それは、85年に世の中を席巻した「おニャン子ブーム」に僕がまったく乗れなかったことに大きな原因がある。

85年当時、僕が住んでいた石川県では彼女たちの人気を爆発させることとなった公開バラエティ番組「夕焼けニャンニャン」は放送されていなかった。この番組の熱狂抜きでみることになった「おニャン子クラブ」はなんというか、ひとりひとりの個性もわからず、そこらへんにいる知らない女の子(失礼!)がわちゃわちゃやっているようにしか見えなかった。

そうなると彼女たちのデビュー曲『セーラー服を脱がさないで』も、ただ下品にしか感じられない。やがて派生ユニットやソロ·デビュー組によってヒットチャートが「おニャン子」勢による寡占状態に陥ると、急速に彼女たちの存在に辟易するようになってしまった。有体にいえば「早くこんな状態が終わらないかな…」と思っていたのだ。

おニャン子に押されて、「花の82年デビュー組」の人気アイドルたちも中森明菜、小泉今日子を除いて徐々に下降線をたどっていく。その頃の僕はもうアイドル歌謡といえば、この二人の新曲くらいにしか興味が持てなくっていた。そういう人も当時多かったのではないだろうか?

おニャン子クラブは、「夕焼けニャンニャン」の終了とほぼ時を同じくして、87年9月に解散。実質的な活動期間は2年半に過ぎない。しかし、その間の異常人気ぶり、特に86年は凄まじく、この年のオリコンチャートでのシングル1位獲得曲46曲のうち30曲、52週のうち36週がおニャン子関連の楽曲で占められていた。

「おニャン子にあらずばアイドルにあらず」とでもいうような状況が続いた数年間。この荒波を受けつつサバイブし、さらに一定以上の成功を収めることができた「非おニャン子」女性アイドルは、中森明菜、小泉今日子、菊池桃子、斉藤由貴、中山美穂、本田美奈子、南野陽子、浅香唯、そして酒井法子くらいのものではないだろうか?

そしてもうひとつ、86年に(個人的には)決定的な事件が起こってしまった。岡田有希子の自殺である。あまりアイドルに対して疑似恋愛的な感情を持ったことがなかった僕だったが、数少ない例外が岡田有希子だった。

その彼女のあまりに突然の、そして衝撃的すぎる死に思いのほか心を揺さぶられてしまった僕は、無意識的にだと思うけれど、それ以降アイドルに過度な思い入れをするのをやめた。

またその原因をめぐって、スケープゴート的にやり玉にあがった俳優へのバッシング報道など、アイドルをめぐる「芸能界の闇」を否が応でも感じさせられたことも大きかったと思う。

長々と書いたが、何を言いたいかというと、80年代末から90年代にかけての「アイドル冬の時代」は、80年代半ばからの「バンド·ブーム」「インディーズ·ブーム」など十代の少年少女の音楽に対する趣味嗜好の変化が主な原因とされることが多かったし、確かにそれは間違いないと思うが、「おニャン子」の異常人気の弊害と岡田有希子の自殺という二大ショックが、負けず劣らず大きかったのでは?ということだ。

そして、本体たる「おニャン子クラブ」が解散した後、各メンバーたちの人気も驚くほど急速にしぼんでいく。その後もアイドルとしての人気を維持しえたのは工藤静香、渡辺満里奈、渡辺美奈代など、数少ないメンバーに限られるのはご存じの通りだ。

そんな彼らも、その後「おニャン子」出身であることを、黒歴史とまでは言わないものの、あまり積極的にふれることがなかった。

そして、その後80年代後半に登場した女性アイドルたちはもはや歌を主戦場にしなくなった。その時期の超人気アイドルといえば後藤久美子、宮沢りえなどが思い浮かぶが、歌も出してはいるものの、タレント、女優としての活動の方に軸足が置かれていた印象だ。

波乱万丈すぎるその後のキャリア。

さて、時間を87年10月あたりに戻そう。イベントはつつがなく終了し、僕らは追いすがるカメラ小僧やファンたちから彼女をガードしつつ、名古屋駅へと無事に送り届けた。

「酒井法子」を認知したせいもあると思うが、この頃から急に彼女をテレビで目にする機会が増え始めた気がした。歌番組、バラエティ、CMと、それこそ彼女の顔をみない日はないというくらいの売れっ子に成長していった。

そして、初見ではあれほど奇異に感じた「のりピー語」はすぐに彼女のトレードマークとなり、社会現象的な人気を博していくのだから、世の中はわからない。

翌88年春には、高校野球の選抜大会の入場行進曲として彼女の『夢冒険』が選ばれている。ちなみに当時多くの人の予想した本命曲は、森川由加里の大ヒット曲、「男女7人秋物語」の主題歌『SHOW ME』だったはずだ(前作「夏物語」の主題歌『CHA-CHA-CHA』が、前年の大会の入場曲に選ばれていた)。

『夢冒険』の方はオリコンで最高4位を記録したものの、「ザ·ベストテン」には10位に1週ランクインしたのみで、ヒット曲といえるかどうかもおぼつかない印象だった。このあたりはいわゆる事務所の力、政治力のなせる業という気もする(けれど聴き直してみると、なかなかの良曲。歌詞の内容も高校野球に合っていますね)。

そんな背景がありつつも、それでも86年というおニャン子人気のピークにデビューしながら、その荒波をものともせずに大成功をおさめた稀有なアイドルのひとりであることは確かだ。

その後の彼女の芸能界における浮き沈みは、多くの人が知るところだろう。90年代には女優として開花するとともに、中国語圏にも進出。特に台湾では数万人規模のコンサートを開催するなど、アジア地域では現在に至るまで絶大な知名度と人気を誇っている。

国内の活動でも『蒼いうさぎ』というミリオン·ヒットが飛び出し、デビュー9年目にして紅白歌合戦に初出場。一時期は80年代アイドル随一の勝ち組だったのではという気もするほどだ。

そして、2009年の覚せい剤がらみのスキャンダル、その後の復帰。

スキャンダルでかなり印象が変わってしまったが、日本の芸能史に残した彼女の足跡は想像以上に大きなものがある。

そんな波乱万丈のキャリアを歩んだ彼女のブレイク期の「とある一日」を目撃できたのだから、いまになって考えれば貴重な経験をしたのかもしれない。


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