今ある日本の原点を探る

明治日本の産業革命遺産(2)
 前回では日本が僅か半世紀で産業革命を成し遂げたのは、自前で鉄作りに成功したからだと述べました。今回からその鉄作りについて歴史を振り返ってみます。
 古くは蹈鞴製鉄という方法で刀などを作っていました。今でも島根県などで包丁やカミソリといったものが作られています。
 近代製鉄へのきっかけとなったのが、1840〜1842年にアヘン戦争がありました。
あの小さな島国である英国が大きな清国をいとも簡単に制圧したことに、幕府もですが一番危機感を抱いたのが九州の諸大名だったのです。植民地化を恐れて戦うための大砲を作らねばと考え、いち早く鍋島佐賀藩が、オランダの書物1冊を翻訳して1851年に反射炉をつくったのです。
その書物は1826年に発行されたユリッヒ・ヒューゲニン著の「ロイク王立鉄製砲鋳造所における鋳造法」で262ページの解説文と必要な図75ページからなる解説文だったそうです。佐賀藩では伊東玄朴や杉谷擁介(手偏なし)が翻訳にあたりました。
その後間もなく鹿児島薩摩藩も反射炉を作り、各地へと広がってきました。
薩摩では集成館事業に着手、ペリーの来航など日本は急速に変革を遂げなければならなくなったのです。韮山の反射炉は黒船来航時、乗組員が上陸したため江川英龍が幕府に進言し海側ではなく山側の方に、佐賀藩の技術協力で作りました。
 1855年から1856年にかけて大板山蹈鞴製鉄が稼働、長州が佐賀藩の反射炉見学を許され、見よう見まねで反射炉建設に着手、吉田松陰が萩で松下村塾を開き、人作りを始め1858年までには韮山反射炉の完成、盛岡藩大島高任が鉄の鋳造に着手、日本人だけの挑戦で釜石の日本最古の洋式高炉である橋野鉄鉱山創業などがありました。

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