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さくら道国際ネイチャーラン 雑感

2024年4月20日朝5時、名古屋城、最後のさくら道国際ネイチャーラン。ランナー100名のスタートを見送る。今年は車で移動しながらの観戦と応援。同行するのは、さくら道ランナーであり39エイドを一緒にやってきたバニーさんとこいさん。4エイド-一宮市音羽公園-20.4km-にこの大会で知り合った友人を訪ねた後、バニーさんが会いたい人がいるという7エイドに向かう。コースに沿ってランナーの背中を見ながら走る車の中は言葉は少なく。時々こいさんが「なんで終わっちゃうんですかね、最後に五箇山でエイドやりたかった、終わっちゃやだ」とつぶやく。7エイド-カレーハウスCoCo壱番屋-34.6kmに到着。エイドを仕切る友人がいたので、ここで先頭から最後のランナーまで応援するつもり、と話すと、「ここと、16エイド-いたち坂パーク-81.4kmが手薄なので手伝ってよ」と、ピンクのスタッフジャンパーを手渡してくれた。エイドやりたかったこいさん、バニーさんは大喜び。

さくら道国際ネイチャーランは名古屋城から石川県金沢市の兼六園まで250kmのコースを制限時間36時間で走る大会です。海外選手20名、国内選手がおよそ120名選考されて走る。ランナーは名古屋城を土曜日早朝スタートして一宮-岐阜-長良川沿いを走り、郡上市白鳥町を通過、国道156号の山間部ロードを走り、五箇山を深夜から翌日の午前中に通過して、日曜日の早朝から夕方に兼六園にある佐藤桜にゴールする。前半は初夏の暑さ、夜間は冬の寒さ(雪が降ることもある)、兼六園は春、と日本の春夏秋冬が一日半で体験できるコース。

「さくら道」を知ったのはランナーとして駆け出しの頃、まだフルマラソンも経験していない2004年以前。旅行で白川郷を訪れて合掌造りの2階で新聞の切り抜き記事を見た。名古屋-金沢間の路線バスの車掌-佐藤良二さん-がこの道をさくらの並木でつなごうとしてさくらの木を植え続けた。そのコースを36時間で走る大会がある、と。2008年頃にフルマラソンも100kmもそこそこのタイムで走れるようになった頃でも、その切り抜き記事が心に刺さっていて、エントリした。
2009年、補欠のち選考、しかし、家庭の事情で出走辞退
2010年、正式選考、しかし4月ぎっくり股関節で歩けなくなり出走断念
2011年、補欠選考、2月に落選決定したが3月東日本大震災の6日後に事務局から出走意思確認の電話があり、出ますと回答。初完走
2012年、正式選考、しかし、4月ぎっくり股関節で出走断念
4回選考通過して3回の出走辞退。他の大会では怪我や故障や個人的事情で出走できないことは無いのに、なぜかさくら道は出走できなかった。縁が無い大会なのかなぁと考えたが、それでもこの大会に関わりたいと思い、エイド運営に関わるようになる。

さくら道のエイドは、およそ5km毎にゴールを含めて50ヶ所が設定されます。

第39エイド-五箇山タクシー-197.6km。2011年の大会でリタイアしたバニーさんがリタイア仲間を集めて2012年に前任から引き継いだエイドである。五箇山は平家の落ち武者の村であるという伝承と、さくら道に討ち死にしたランナーをなぞらえて「落ち武者エイド」とも自称した。昨年2023年まで続けていることで、少しづつ仲間が増えて、たくさんのメンバがエイドに参加した。リタイアしてもう走れなくなったけれどさくら道に関わりたいランナー、リタイアしたけれどまた走りたいランナー、これからさくら道を走りたいランナー、frunの仲間、石川のランナー仲間。さくら道がどんなものか見てみたい人、おやまにだまされて連れてこられた人笑。東京、千葉、名古屋、岐阜、三重、兵庫、富山など、そして石川から、交通費など出せないのにみなさん手弁当で。こいさんは2014年にランナーで参加したがリタイアしてから、当エイドの名物温玉カレーのカレーマスターとなった。
エイドでは食べ物飲み物の提供の他、荷物渡しと預かり、ランナー通過チェックと情報ボードの掲示、海外ランナー向けメニュー各国語対応、仮眠スペースの設置、トイレ、ランナーのケアなど。エイドスタッフの様々なアイデアですべてのランナーをできる範囲でサポートした。

さくら道のエイドは実行委員会から渡されるスタッフマニュアルでは、サイズはS、M、Lの3種類で、Sは飲料水のみ、Mは飲料水と菓子パン程度、Lは飲料水と菓子パン、おにぎり程度、と書いてあり、サイズに応じた運営費と飲料水が渡される。それだけ。39エイドでカレーを出すような指示は無い。
しかし、すべてのエイドは担当グループによる自主運営。前半は、いちご、スイカ、暑ければ氷、寒ければ暖かいもの、サンドイッチ、夜間エイドではカップラーメン、豚汁、焼肉、ビール(笑)、朝方は暖かい味噌汁とごはん、そして温玉カレー、日が昇って暑くなると、そうめん、最後のエネルギーになるものなど。ランナーがほしいと思ったときに欲しい物がそこにある。
ランナーとエイドと運営がとても近い、そんな大会である。

エイド申請には担当団体名を書かなければならない。初めての申請時にとっさに決めた名前は個人名でもなくfrunというランニングクラブ名でもない「グループ石川」という名前。ゴールが兼六園なのに当時は石川県のランナーの間でもあまり知られていない状況だったので石川県のランナーにも参加してもらいたいと願ったのかもしれない。

スタッフ・ボランテイア合同説明会は大会の一週間前の金曜日19時から、場所は岐阜県郡上市白鳥町、白鳥振興事務所。仕事は金曜日午後半休をとり、13時前の新幹線で東京から名古屋へ、JR高山線で美濃太田、長良川鉄道に乗り換えて美濃白鳥駅まで半日の旅。19時から説明会に参加してエイド資材を受け取る。白鳥町から金沢までの公共交通機関は無いので、運べるものは担いて運ぶか、大会当日ピックアップに来るか、金沢から誰かにきてもらう。この土日に資材や飲料水などを買い出し。
大会当日は朝から食料の買い出し、食料や資材を車に積んで五箇山タクシーさんの車庫に向かう。五箇山タクシーさんは車庫だけでなく、寒くなるだろうからとストーブや、資材を貸してくださったり、さくらが咲いている時はライトアップしたりして、僕たちを迎えてくれた。夕方から設置、準備が終わったら夕食とメンバの顔合わせ会。深夜日付が変わる前後に先頭ランナーが到着する、夜が明けるあたりがランナー来訪のピーク。朝10時頃最終ランナーが通過するとかたづけしてお昼前に五箇山タクシーさんにあいさつして撤収する。

最初にエイド運営に参加したとき、一週間前に白鳥振興事務所に行かなければならないことを含めて、大変だなぁと思った。
しかし、この時期の白鳥町はさくらの季節で車窓から眺める長良川沿いのさくら道のコースは、美しい。合同説明会の後、実行委員会の飲み会に参加して鶏ちゃん焼きを食べお酒を飲み話を聞く。民宿に帰ってから、第一回から参加して大会を作ってきたみなさまとお酒を飲みながら話を聞く。翌日は白鳥町マラニックに参加して名所旧跡を巡る。この小旅行は4月の楽しみのひとつになっていた。

大会趣旨-大会ホームページより引用-
この地球の上に 天の川のような 美しい花の星座をつくりたい。
花を見る心が一つになって 人々が仲良く くらせるように。  −佐藤良二−

大会一週間前の合同説明会のエイド一覧で「エイドは設置しません」と書かれている欄があることがある。エイドの運営は大変で、特に、白鳥町以北のエイドは運営時間が夜間、かつ、長時間になるので担当グループの負担が大きいため、欠けてゆくのだ、まるで植えた桜の木が枯れるように。大会ルールでエイド以外の助力は禁止であるため、エイドがひとつ欠けると10kmまたはそれ以上の間隔になる。白鳥から城端町-富山県の区間は夜間走で、コンビニ、自販機はほとんど無く、寒いなか1時間以上、場合によっては2時間以上、ひとりぼっち。ランナーにはつらい。その状況をわかっている古くからのランナーやエイド担当が奔走していろいろな形で欠けたエイドの穴を埋めていた。

39エイドを始めてしばらくして、41エイド-五箇山トンネル出口パーキング-207.6km が、次いで 45エイド-南砺市藤原口-228.6kmが欠けた時、グループ石川で担当した。その頃には少しづつだが石川県の仲間が増えていて、掛け持ちができるようになっていた。
すべてのエイドをつなぎたいなぁ、と思うようになったのはこれから少ししてから。最後のエイドである第49エイドは僕が初めて参加した時からずっと設置されることはなかった。森本駅から兼六園への国道の区間で補給の心配はあまり無い。しかしエイドが星ひとつひとつに思えてきて、全部つながったリスト-さくら道の星座-ができたら良いな思うようになった。

2018年、ランナーで参加、完走。記録は35時間55分(制限時間5分前)、完走者82人中82位。
2019年、ランナーで参加、41エイドでリタイア。
グループ石川の仲間が少しづつ増えて、ランナーとして走っていいよ、いや広報のためにも走れ、という指示がでたのでエントリーした。2018年は最終ランナーになった、そのおかげみんなに迎えていただいてとても幸せなゴールだった。(あまり速いとエイド撤収からゴールまで間に合わないのです笑)。2019年はスタートして5km行かずに右ふくらはぎ肉離れしたが温玉カレーを食べるために39エイドまで進んだ。最後の力を使い切って五箇山の坂を登り、やめようと思っていた40エイドで叱咤激励をうけて、長い五箇山トンネルを抜けて、来年はエントリしたいと言っていたグループ石川のメンバが待つ41エイドに到着して、なぜか清々しい気持ちでリタイアを申告した。

2020年から2022年まで新型コロナ禍で大会は開催されなかった。3年間のブランクはエイドの継承に影響がある。

2023年、合同説明会で47エイドが設置されないことを知った。民家の玄関先のSエイドだったが何か事情があったのだろう。
勝手に代替の場所が無いか探し回った。JAのガソリンスタンドの横の空き地をみつけて、担当してくれるという友人を見つけて、ガソリンスタンドに電話したところ、好感触で「上司に聞いてみますね」と。しかしJAからは夜間に通過するため騒音があるだろうから周辺住民の理解が得られない、とのことで却下された。大会の三日前のお願いであり、地域に根付く組織としては当然の判断だよなぁと思ったが、さくらの木をひとつ失った気がした。それと同時にこれまでエイドを維持してきた運営委員会の苦労を思い、佐藤良二さんはひとりひとり地権者にお願いをしながら一本一本さくらを植えたんだろうかとか、考えた。

2023年には石川の次の世代のランナーがふたり、さくら道を完走した。ふたりとも39エイド出身者で、2018年に僕が走ったときにさくら道に興味をもってくれたらしい。彼らのつながりで新しい人が、グループ石川のメンバとして参加してくれて39,41,45エイドはとても賑やかになった。大会が終わって翌日の昼ごはん、浅野川大橋が見える鮨屋でバニーさんとこいさんと、ビールを飲みながら、来年は47エイドと、ここの鮨屋の軒先で49エイドをやりたいな、そうすれば花の星座ができあがるのだ、と語っていたのだが。

「歴史の冷徹な事実として、ミッションのない大会、組織は消える」
さくら道国際ネイチャーランは、太平洋と日本海をさくらでつなごうとした白鳥町出身の佐藤良二さんとさくら道を語り継ぐという夢と、もうひとつのミッションがあった、らしい。冒頭の言葉は2018年の閉会式に実行副委員長だった大郷さんが語った言葉だ。翌2019年の話では、30年前、スパルタスロンに18人の日本人が参加したがひとりも完走できなかった。そのとき現地で「SPARTATHLON is NOT Holiday(スパルタスロンは遊びじゃねえ)」と嘲笑されたことが、この大会をつくる動機のひとつだったと。250kmという距離、36時間という制限時間、5km毎のエイド、エイド以外での助力や伴走は禁止というさくら道国際ネイチャーランのルールはスパルタスロンを意識して作られたようだ。そして昨年はスパルタスロン250kmの日本人完走者が過去最多だったことと女子優勝者が日本人になった、と語られた。
海外ランナーが「さくら道のほうが素晴らしい」と話し、フランスの書籍にさくら道が大きく取り上げられた。超長距離走の国際レースの日本代表がここから出たりした。また、さくら道の出場資格取得のためにスパルタスロンを完走した、という話を聞いた。白鳥町という小さな町が始めた小さな大会が、自分たちが思っている以上に、周りからは大きく見らるようになった。
コインには表があり裏があるように、すべての事象には表があり、そして裏がある。
さくら道の「もうひとつの夢」は、達成されてしまったことで、終わってしまった。
ランナーとエイドと実行委員がとても近い、という大会の特長は、傍からみれば疎ましく思えたり、新規参入しにくい、という裏の面になる。世代交代が進まない状態で一年経てば人間はひとつ歳を取る。大会が最後になったのは歴史の冷たさなのだろうか。

午後6時、白鳥振興事務所前に設置されたゴール会場で、帰って来るランナーを見ながら考えていた。
バニーさんにはバニーさんの、こいさんにはこいさんの人のつながりがあり記憶がある。それぞれの記憶は異なるものだ。さくら道に関わったランナー、エイドスタッフ、運営の人たちにもそれぞれの星座があり、それらが絡み合っているように思える。
僕にとってさくら道とは何だったのだろうか。
エイドスタッフや運営スタッフは、人に優しく配慮ができて、礼儀正しい。
さくら道ランナーは、自然に対しても人に対しても謙虚で、強く、そして柳のようにしなやかだ。
そんな人たちを見ていて、自分もそうありたいと思う。
ゴール会場ではランナーひとりひとりの思いをアナウンスしていた。これもやはり自主運営(笑)。アナウンサーはバニーさんが会いたいと言っていた7エイドの人。
午後7時、最後のランナーがゴールしたあと、「ここにいるみんなで集合写真を撮りましょう」とアナウンス。ランナーも運営スタッフもエイドスタッフも応援の観客も混ざっての集合写真。
大会が終了することで、みんなとはもう会うことはない、かもしれないし、そうでないかもしれない。
交わした言葉は、さようならではなく「また、どこかで」でした。

あとがきにかえて
さくら道国際ネイチャーランではたくさんの人に会い、たくさんの経験しました。そのすべての友人を紹介することは困難だったので、最後の大会に同行していただいたお二人にのみ登場してもらいました。みなさまありがとうございます、ここで紹介できなかったことご容赦ください。みなさまのことは僕のなかに残り続けます。


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