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スパイの妻論


あらすじ

この映画は、第二次世界大戦中に日本軍が満州で人体実験を行っている証拠を入手した高橋一生演じる夫、優作と、蒼井優演じる妻、聡子が、アメリカにその証拠を提出することで正義を果たそうとする物語である。そこで、主題は日本軍の惨たらしい虐殺とそれに対する反抗、見どころは、日本軍に見つかることなくアメリカに亡命する緊張感のある活劇として全面化しそうになるが、それらを徹底的に回避し続ける。

とりあえずの主題 「階段」

とすれば、本当の主題はなんであるか。その主題を明確にするために"とりあえず"階段について着目することにする。この映画では、男性が階段を降りる、そして女性が階段を登るという身振りが反復される。優作と聡子が一度ずつ逆の身ぶりに転じるのであるが、その場面を除き、全ての女性と男性が例に違わず、そのゲームの規則に則って、その身振りを演じ続けるのである。ともすれば、主演夫婦が逆転の身ぶりに転じる際にその主題が明らかになることを期待してその詳細な分析をしていく。

逆転の身振り「下降」

まず逆転の身振りを演じて見せるのは優作である。優作が、妻を密告者として罵りに行く際に、彼が階段を登るショットが現れる。彼は秘密のテープを世界的に発表することによって、正義の追求を試みようとしている。それは、この映画を通しての一貫した彼の姿勢である。しかし、それは聡子の反乱とも言うべき裏切り行為によって、頓挫しかける。彼女は日本軍にそのテープを提出するのである。その事実に激怒した優作は聡子に押しかけるわけであるが、その際に階段をのぼる優作が映される。そのシーンで優作は自身の正義の追求という男性的とも言える行為を女性によって妨げられているのである。
この逆転の身振りの所以をこのシーンのみで明らかにすることはできないであろう。階段を男性が降りることとはなんなのか。そこで、この映画で階段を降りる男性の他のショットを明らかにすることで、その機能を探ることにする。
この物語に出る男性、特に階段を降るという身振りを行う男性というのは、優作の他に、聡子の幼なじみの東出演じるヤスハルが挙げられる。ヤスハルと聡子は序盤に出会うショットが収められている。山を下るヤスハルと山をのぼる聡子が出会うのである。緑が生茂る山の中で邂逅を遂げる男女という、いささか恋愛的な雰囲気が漂う空間に興奮を覚えないでもないが、それについてはまたの機会に語るとして、出会いの話に戻りたい。この出会いのシーンでも、階段という急勾配を帯びたものではないが、緩やかな坂において、その主題が明らかになる。ヤスハルは日本軍に従軍したという報告をする。しかし、彼は日本軍に染まりきった存在ではない。聡子の誘いに対してウィスキーという海外の飲み物を飲むという一種の売国奴的行為をヤスハルが拒みながらも実践することが完全に日本軍に染まっているわけではないことを表しているだろう。一方の聡子も優作の存在がありながら、ヤスハルにある種の誘惑をかけている。ヤスハルは軍人としてその片鱗は着実に存在しているが、徹底されてはいない。また、聡子は優作と添い遂げることを徹底してはいない。しかし、この物語が進行するにつれて、緩やかであった勾配が、階段という急勾配を上昇または下降することによって、それぞれの性質を強化していくことになる。
出会いの段階では、日本軍の意志を貫徹する仕草は見せていないヤスハルだが、彼の務める拠点において階段を下るヤスハルは徹底的に、無慈悲な一人の軍人なのである。そして、その身振りというのは彼なりの(抽象化された典型的な軍人)正義の追求なのである。正しいと思って、拷問をして爪を剥がすのである。聡子が密航をばらされて多くの軍人が階段を下る見事なショットでも、軍人という正義のもとに戦っている(と少なくとも彼らは思っている)男性が階段を下るのである。ここに優作とヤスハルの、階段を降りることという共通点が見出される。それは方向性こそ全く異なるものの、正義の追求という一点において彼らは同質なのである。つまり、階段を降りるという行為は、男性の戦争における正義の追求が下降運動と結び付けられるという主題が明らかになる。しかし、それだけでは優作が階段を上るという身ぶりに転じた所以を明らかにすることはできない。そこで聡子が階段を下ることになるシーンを分析する。
それは、聡子が亡命のために、貨物船の地下室へ下る際に現れる。このシーンは、優作の策略によって聡子のみが亡命に失敗するときである。優作の正義の貫徹に不必要であると判断された聡子は優作によって密告されて、捕まるわけである。つまり男性の正義の追求の犠牲になるわけである。ここに女性的身振りが封印されるわけである。
ここでいう女性的身振りとはなんであろうか。その前に、黒沢清が蒼井優に対して、参考にするべき女性としてあげたのが、風の中の牝鶏の田中絹代であることに注目したい。この映画における田中絹代は理不尽に夫である佐野周二に階段から突き落とされるのである。しかし、田中絹代は文句の一つも言わず、夫である佐野周二に寄り添い続ける。近代的な女性の主体性の象徴になった原節子や高峰秀子ではないのである。ただ、夫といたいという欲望のみが唯一の欲望であるかのように振る舞う田中絹代なのだ。そしてスパイの妻である。聡子は夫とより添い遂げること以外の欲望を露わにすることなど一度もない。そしてその欲望を遂げるためには手段を選ぶことはない。聡子は優作の親友である文雄を日本軍に売るのであるが、その必要性は釈然としない。3人で、一緒にファイルをアメリカに渡せばいいのである。しかし、聡子は二人でその作業を行うように仕向けるのである。また、いざ亡命しようとするとき、分かれていくことを執拗に拒むシーンも忘れてはいけないであろう。つまり、階段を上ることによって表される女性的な身振りというは、一緒にたいという欲望であるのだ。
ここで、ようやく逆転の理由が明らかになる。優作が階段を上るときというのは、聡子の策略によって女性的な身振りを獲得しているときである。文雄を売られた優作は否応なしに聡子と共に計画を完遂することを余儀なくされているのである。聡子は「あなたには私しかもういないんです」というセリフを思い出そう。そして、聡子が階段を降りるシーンというのは、優作に売られて、一緒にいることができなくなることの符牒として機能している。一緒にいるという女性的な身振りが男性的な正義の追求によって封じられているのである。この両者の逆転の身振りを明らかにすることによってこの映画の主題が明らかになる。
つまり、この映画の主題は男性的欲望と女性的欲望の押し合いというゲームなのだ。チェス版の演出がゲームのイメージを定着させていたことは忘れていけない。聡子の金庫破りが見つかるのは、倒したチェス版のコマの位置が違うというやや安直とも言える演出であったが、それは、ゲームのイメージを定着させる機能も有していただろう。先ほども言及した「あなたには私しかいないんです」というセリフにはゲームにおいて相手を追い詰めたニュアンスが感じられないではない。決定的なのは、聡子が捕まった後に狂ったように叫ぶ「お見事」というセリフである。聡子は単にゲームに負けたのである。では、この映画は男性の正義の追求によって犠牲になった女性の古臭い作品なのであろうか?

まとめ  そして本当の主題

それは違うと断言したい。ゲームは終やっていないのだ。最後に字幕によって戦後に聡子がアメリカに単身で行くと映される。おそらく勇作を探しに行ったのだろう。そこで優作と添い遂げたかどうかはわからない。しかし、戦争というある種のゲームが終わり、男性的な正義の追求は消滅する。ヤスハルはもとより、優作も正義の追求の意義は同時に消滅している。階段の下降を繰り返した男性は、終戦という決定付けられた未来に向かって下降し続ける存在でしかなかったのであり、その運命は揺るがなかった。しかし、聡子はゲームを続けることによって、勝利したのだ。続けることで、負けない聡子は、戦争というゲームとは無縁のところで欲望を追求する勝者であるのだ。ここに、黒沢清蒼井優に託した、あの田中絹代のイメージの正当化に成功した映画的勝利に「あっぱれ」という賛辞を送るほかに見るものは選択肢を残されていない。

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