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一人暮らし+α

 久しぶりにバイトもない日曜日。起きて早々飛び込んできたのは、ひどく不満げな幸の顔だった。
「たまには構ってくれてもいいと思うの」
「……ちゃんと毎日構ってやってるじゃねえか…」
「いいえ。いいえ、そんなことないのよ。幸也はここのところ、明日も朝からバイトだとか大学の課題がどうだとか言って、ほとんどご飯食べて寝るだけの生活だったじゃない。私を部屋の隅に追いやって」
「追いやるも何もお前は隅っこ大好きっ子だろ」
「それはそれよ。話を逸らさないで」
「わかったわかった。話は聞くからとりあえずトイレ行かせてくれ。そろそろ漏れる」
「トイレと私、どっちが大事なの」
「トイレ」
「……幸也なんか不幸になればいい」
「やめろお前が言うと洒落にならねえ」

 × × ×

 大学進学を機に一人暮らしを始めるというのは、まあ、よくある話ではなかろうか。自身の未来についてあれこれと思考するなら、学生時代の一人暮らしは将来の予行練習に丁度いいと考える人間も多いだろう。
 大人でもなく、子どもでもない。そういった人間を、どこかの心理学者が『マージナル・マン』と呼んだ。大人と子どもの境界に立つ俺としては、なるほど、上手いものだなと感心してしまう。
 要するに何を言いたいかといえば、大人のように振る舞っても、子どものように親に甘えてみても。ある程度許容されるのがモラトリアムを謳歌する大学生たちなのだろう。
「ねえ、なんで遠い目をして食パン齧ってるの?」
「それっぽい一見難しそうだけど実は中身のないことを思考することによって、現実からの逃避を試みてたんだよ」
「?」
 遡ること三ヶ月前。初めての一人暮らしに胸を膨らませ、意気揚々と扉を開いた俺の目に飛び込んできたのは、白いワンピースを着た少女。
『あなたが新しい人?』
 純真無垢な瞳で小首を傾げる姿に、さながら銅像のように固まってしまったのも仕方のないことで、およそ十秒後に絶叫したのも仕方のないことだ。他の住人が留守だったのは運がよかった。
 落ち着きを取り戻してから話を聞くと、少女の名前は幸で、驚くべきことに座敷童子なのだという。
 最初は信じなかったが、姿を消せること、この部屋からはどうやっても出られないこと、部屋の外からでは姿が一切見えないことから、認めざるを得ない結果となった。
『ふふん、すごいでしょ』
 『何かジュースとかある?』と俺が買ってきたカフェオレを飲みながら得意げな幸に対して、座敷童子って着物じゃないんだとか、カフェオレ飲むんだとか、というか内見の時はいなかよなとか、言いたいことはいくつかあったが、一先ずは頭の片隅に置いておくことにした。
 斯くも、慣れというのは恐ろしいもので、今ではこの奇妙な生活にすっかり馴染んでしまっている。
 一人で住む予定だった部屋に座敷童子が住み着いている。そんな現実を平然と受け入れているのは、俺の度量の広さがなせる技だ。褒め称えられてもいい。
「幸也、幸也」
 袖をぐいぐい引っ張ってくる幸。
「早く私に構いなさい」
「構うって言っても、悪いけどお前みたいな子どもを楽しませる手段は持ち合わせてないぞ」
「子ども扱いしないで」
「はいはい」
 そういう反応が子どもっぽいんだけど、と思いながら、幸の頭を撫でる。「またそうやって」とか「髪ぐしゃぐしゃになるじゃない」とか文句を言いつつ満更でもなさそう。可愛いなこいつ。扱いとしては子どもなんかよりもペットに近い気がするが、言ったら拗ねるからやめておく。
「ほんとにもう幸也はもう」
 悪態つきながらも笑んでいる幸。よくわからんが機嫌も良さそうだし、この構い方で正しかったようだ。ちょろいな、ほぼ突っ立ってるだけの書店でのアルバイトよりも楽だ。これで賃金発生したらいいのに。
 本当に、こうして見ているとただの子どもだというのに。
 ふと、テーブルの上に放り投げていたスマートフォンがメッセージの受信を知らせた。大学の友人からで、内容を確認すると、チケットが余ったからライブに行かないかという誘いだった。
 流行りのロックバンドによるそのライブには俺も申し込んでいたが、残念ながら抽選で漏れてしまったもので、少しばかり落ち込んでいたのが記憶に新しい。二つ返事で了承した。
 構え構えとうるさかったくせに、いつの間にか人の膝の上で寝息を立てている幸。困った奴だと溜め息を溢して、仰向けに寝転がる。
 座敷童子と一口に言っても、地域や伝承によって様々だが、概ね共通しているのは見た者に幸運が訪れる、というもの。そんな逸話に沿うように、座敷童子である幸には、特異な能力が備わっている。
 大雑把に言えば、禍福を操る、と言えばよいのだろうか。幸自身に制御出来るわけではないから、操ると言うと語弊がある気もする。それでも、ここ最近自身に降りかかる幸運や不幸が、幸からもたらされているのは疑い様もない。
 その能力が行使されるのも条件がある。幸に幸福感を与えられたら幸運が。反対に、幸を不幸にすると自らに不運が降りかかる。単純ではあるが線引きが難しい。何が幸にとっての幸福なのか、不幸なのか。そもそも幸せとは何なのか。
 禍福は糾える縄の如しというが、俺が安穏と享受している幸福の背景には、どこかの顔も知らないような誰かの不幸があるのではないか。そんなことまで考えてしまう。
 とかく、幸と生活するにあたって重要なことは二つある。ぞんざいに扱わないこと、適度に構ってやること。これさえ守っていれば、そうそう不幸に見舞われることもない。座敷童子という稀有な存在ではあるが、基本的に幸は子どもなのだ。
 それに不思議と幸の存在は受け入れられたし、妙な安心感すらある。自分でもよくわからないが、幸と暮らしていることはごく当たり前であるかのように感じられるのだ。これも座敷童子特有の何かなのだろうか。
 天井を眺めてぼうっとしていると、瞼が重くなってきた。それもそのはずで、今朝は幸に叩き起こされたも同然なのだ。当人も眠ってしまったし、こちらも眠気に身を委ねても誰も責めまい。目が覚めたら飯でも作るかと考えつつ、俺の意識は溶けていった。

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