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統一感の欠如

昨日はじめてのnoteを投稿してから、さまざまな執筆ネタが頭の中を駆け巡り、どのネタから書いてやろうか、一日待たずして全ネタ投稿してやろうか、などと考えたが、結局一切のメモも取らず寝てしまい、朝起きた頃にはネタも文章も全て忘れてしまった。結局世に生み出されることのなかったネタを考えていたあの時間は無駄以外のなにものでもない。人生に無駄な時間なんてないと他人は言うけれど、いわゆる生存者バイアス的な要素をおおいに感じなくもない。無駄なものは無駄である。認めるところは認めていかないと、言い訳ばかりの空っぽ人間になりかねない。君が相手に投げかけるその言葉は本当に優しさなのであろうか?

それっぽいことを書いたけれど、実際は全くもって重く受け止めていない。無駄だったなぁと言いながら下世話なヤフコメをレスポンスのレベルまでおりて読み尽くすくらいの軽さである。揺さぶられた方すまん。

さて、昨日アカウントのプロフィールを設定した。

名前は「茶渋」
自己紹介は「山籠りの隙間で」

ここから連想される人物像。とある山奥の小屋に籠って自給自足で暮らし日頃から修行僧の如く独り精神を鍛えている激シブ系日本人、といったところであろうか。

ダウトである。アカウント写真をみよ。
これは「とある海外の国の大都市のドーナツ屋さんで撮った可愛いお顔つきのチョコドーナツ」である。
激シブ山籠り修行僧ともあろう人間がそんなもの撮るなぞ、外道だ!今すぐこの山から出ていけ!国からも出ていけ!!一生ドーナツ食ってろ!!!ミスドは食うな!!!!

静まれ民衆。
実際、上記のプロフィール名や自己紹介文、アイコン写真は紛れもなくわたしの生活から生まれたものである。それぞれがわたし自身の特徴を、極限なまでに抽象的なかたちで表している。だが上述のとおり、それぞれから得られる印象はあまりにかけ離れている。わたしという一人の人間から生まれているはずなのに、統一性なんてものが一切ない。

しかしわたしは思う。人間、統一性や一貫性なんてものはない。ヒトは相手に統一性や一貫性を求め、そこから逸脱した人に厳しく当たる。たしかに統一性のなさは相手に不信感を与える。だが、その激しく不安定な性格・人間性の裏には、その人間を本当に支える一つの超性格なるものが存在するのである。
ゆえに表面的な統一性にとらわれてはいけない。山籠りの修行僧もどきが海外へ行ってきゃわいいドーナツをハムハム食べることのどこがおかしいのか。

しかし同時に思う。そんなこと、世の多く人々が分かりきっている。問題はその先。それを分かった上で、表に出す要素を自身で考えて選び出して言葉にし、どれだけ魅力的に作り上げるか、ということである。

そう、分かってしまったこと。
わたくしにはそういった「センス」がない。
ゆえにこの統一性のなさ、ひいてはダサさも、しばらく時間が経ってから気づいた次第である。
こういった状況に陥ることは決して初めてではなく、むしろ死ぬほどまでに経験してきた。何かコツを掴みたいところではあるが、コツを掴んだところで真のセンスある人間に太刀打ちできるはずもない、と諦め先行型のいかにも成功しなさそうな人間であるが、少なくとも「そんな自分を打破しよう!」「副業始めよう!」「月に100万円以上稼ごう!」といった一貫性には気持ち悪いほど自信あり!のようなお誘いはご勘弁である。







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