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『仮面の告白』と仮面の三島由紀夫

 三島由紀夫の『仮面の告白』は、作家本人をモデルとして想起させる「私」の幼少期の記憶をたどるところから物語は始まる。糞尿汲取人の若者にはじまり、行進する兵士たちに性的な快感に結びつくことなく、その職業の悲劇性、その死に官能的欲求を目覚めさせ、と同時に女奇術師に自らを擬する扮装欲の芽生えを経て、おとぎ話の「殺される王子」、聖セバスチャンの殉教図などに自己を投影してマゾヒスティックな空想の中で欲情するのだった。
中学に進学した「私」は同級生である粗放で精悍な近江に魅かれ、肉欲を覚える。そして「近江になりたい」と思うのだった。
 彼は同性に対する嗜虐的な夢想によって性的快感を得つつも、そんな自分を嫌悪してゆき周囲にその性癖を知られることを恐れ友人の妹との逢瀬をつうじて「正常」な異性愛者になろうと、また装おうと心を砕く。彼女の清らかな美しさに心打たれつつ虔ましい気持ちを抱くが、「私」は園子との接吻に何も感じられず求婚を拒絶してしまう。明日をも考えられぬ戦争が終わり、売春宿で女に対する自身の不能をまざまざと思い知らされた「私」は外交官と結婚した園子と再会を果たし、仕事の合間につかの間の逢瀬を重ねる。園子に肉欲のない霊性への愛をもあるかに考えつつも何かに発展することもない関係に「私」は終わりを予感した。
 本作品では嗜虐的で同性愛的な夢想に陶酔する「私」と、周囲の人々がそうであるようなところの異性愛的な「正常さ」を身に着けよう、装おうと仮面をつける「私」という二項対立かに見える彼の内面的な葛藤が主題となっている。しかし、そもそも彼のひた隠しに隠している性癖が素顔であり、女性に対して何らの肉欲も感ないにもかかわらず、異性愛者であることを演じた彼が仮面をつけたかりそめの姿であると、そう言い切れるほど事情は単純ではないように見える。こうした彼の仮面と本心にせよ脱構築するとどこまでが仮面であり、どこからが偽りのない素顔なのかという線引きはたちまち攪乱され霧消してしまう。
 まず、彼が欲情を感じる際に天勝という女奇術師になりたいと願い、戦争ごっこの果てに死体を演じ、思慕した同級生、近江になりたいと願うのである。いわば「素顔」のありのままの欲望も演技を経てやっと発動するのだ。彼はかりそめの誰かに我が身を仮託して恍惚感を得さえもし、欲情もする。そして自らの腋窩に情欲を駆られ射精もする。ここでは自己と他者という欲望の対象の二分法でさえも脱構築されていく。同級生を殺させ食卓に並べさせようという夢想も、自他を裏返してみればサディズムでもありマゾヒズムでもある。
 また、死という悲劇性を欲情の源泉の一つとしてきた彼は肺病を偽り兵役を忌避した。そうしてみると彼の「素顔」の希求する欲望もその所在が脱構築され見えなくなっていくようだ。
 いっぽうで精神分析批評の観点から検証してみると、「私」には根強く家父長制に根差した異性愛体制を迫られもし、そのことを自身の内なる父性として内面化さえもしてきているようである。それは園子を愛さねばならない、といった義務であり、法律のように厳格な観念である。
彼は有無を言わさぬ父の要請で法律を専攻するのだが、園子との関係に煩悶するさなか、自室で六法全書を壁に投げつけもし、また蹴り飛ばしもし、戦時下に学友たちと法律論を語ることも「くだらない」ものとみなしていた。これを彼のエディプスコンプレックスの発露といって差し支えあるまい。
さて、本作の「私」の生い立ちは三島のそれを下敷きにしているようでもあるが彼自身が作品はあくまで仮構であると言及したということだが、あえて「私」を他者に「公ちゃん」と呼ばせもしており、作者自身と表裏の関係にあることは免れない。三島自身も自らの直接語ることのできないトラウマをフィクションとして、物語として語ることによって乗り越えようとしていたのかもしれない。そうしてみるといわば仮面である虚構の中の「私」と現実の素顔、作者という二項対立も境界を失っていく。

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