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利休は生きていた!?ー中村修也氏の学説を概観して

 これまでの利休が切腹したということが信じられてきたのは、表千家に残されてきた一次資料ではない後世に書かれた「千利休由緒書」によって流布し定着したことによるという。
 また江戸時代以降に美化された千利休の茶聖という人物像にも影響を受け、秀吉が切腹を命じた理由はその芸術性の相違であるという見方が一般的見解になり多くの人々の目を曇らせてしまった。
 利休が堺の政商であったとするならばそのような理由で自身を重用してくれている秀吉に対して牙をむくということが起こり得ようはずもないのは一目瞭然であるにもかかわらずだ。
 このあたりの誤解が生じるのは侘茶を芸術としてとらえる後世の見方によってゆがめられていったのであろうと思う。中村氏はそもそも侘び茶は田舎育ちの秀吉の好みに合わせたものだったともいうのだ。
 当然にも「千利休由緒書」では千家の、その茶道の格に箔をつけようとする意志も働いたであろうから鵜呑みにするのは危険だろう。またそもそも時間的な隔たりも大きく当の筆者自体が事実を正しく把握することさえ困難であろう。
 私は中村氏の著述で紹介されたように同時代の史料である『言経卿記』に利休の堺追放が書かれつつも利休の切腹された日とされる日に何らの記述がないこと、『晴豊記』に逐電したと明記されていることをより信憑性が高いものと思われる。

 また、伊達政宗の家臣である鈴木新兵衛の手紙においては利休の木像が磔にされたという珍しい出来事を書き記しており、当然ながらここに利休本人の晒首があった、という事でもあればそのことも否応なく見聞きもし手紙の中にも認めたものであるから、まず利休が先の二つの日記の言及する通り逐電して、木像だけが一条戻り橋に磔されたという奇妙な事態が出来したのだと考えるのがごく自然であろう。
 これらは利休と対立した石田三成の体面もあって命だけは取らずに罰したという見方となる。
 さて、私は秀吉が利休の「没後」である朝鮮出兵にさいして九州に赴いた折に、侍女宰相を通じて大政所に宛てた秀吉自身の手紙において、秀吉が利休の茶を楽しんでいることを伝えている点にも後世の利休切腹説が権威を持って以降の学者たちの論がつじつま合わせのこじつけめいて聞こえてならない。
 この手紙は読み手である大政所が素直に読めるものではなくてはならないとすると秀吉がそこに「利休流の茶を飲んだ」などという読み方を含ませて書こうなどとは思わないであろうし、そうした主張は牽強付会と言わねばなるまい。
 また、利休切腹説の端緒となった「千利休由緒書」が前田利家から大政所、北政所からわび状を書いてもらって秀吉に許しを請うたらどうかと勧められたとあるというが、そのような記述を信じるならば、もし仮に切腹が事実であるということを前提にして考えた場合に、利休を擁護している立場だったであろう大政所へ宛てた手紙の中に当の切腹を命じた張本人であるところの秀吉が、利休の茶を飲んでいるなどと書くはずがないだろう。母に悲痛な思い出を喚起させることもあるまいし、またそうしたことを敢えて書いてよこすようならば大政所をして秀吉の人格をも疑わしめかねないからだ。
 利休の名が唐突に出てくることが九州に利休がいることの証左ではないだろうか。さもなければ大政所には話が飛躍しすぎて手紙の内容が理解できない。彼女も利休のその後の消息を知っていたはずと考える。

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