富士山
富士山、行っちゃった
静岡に色々なものを置いてきてわたしは東京に帰った。片耳しかないイヤホンとか愛用していたのに失くした指輪とか、母親に頼まれて作った料理とか、本当は持っていきたかったクラシックギターとか。
乗車率140パーセントのひかり号に少し揺られながら眺めた富士山は カーブに合わせて少しだけ麓の方を見せて、肝心の山頂はぜんぜん見せてくれないまま、あっという間に行ってしまった。本当は、富士山も持っていきたかった。
目の奥に残る富士山を見る。静岡の少し緑の夕方の空を背に富士山は静かに構えている。いつでも動かず、変わらずに。そうなんだ。これが大地か。私は少しわかった。
窓の景色がしばらく真っ暗になり、耳抜きをたくさんして、窓の景色が復活した。トンネルを抜けた先の窓は曇天だった。なぜか自然と悲しくなった。あの綺麗で澄んだ静岡の空を思い出していた。私は静岡を出たんだ。と思った。
自分が少しずつ大人になっていく。静岡駅内に特設されていた「新年の豊富コーナー」の絵馬型の安い紙に様々な願いが書き込まれているのを横目に見て、私は何を感じていたんだろう?でも、新年の願いと言われて思いつくのは一つだった。書きたいことを書いて、名前も書かずにボードの下の方へ差し込んだ。幸せになれますように、みたいなあたたかい願いが多い中でひとつだけ温度のない現実の気配を放っていた。
いつも故郷を出る時、特に両親と別れる時は、泣きそうになる。初めて別れた時…東京に引っ越す日、新居の前で降ろされていよいよ別れる時、車の窓から手を振る両親を顔を見た時は少し泣いてしまった。夜になって、もっと泣いた。
次の別れは7月だった。池袋駅のJR線の前で母を見送った時も、少し泣きそうになった。最寄り駅で降りて、そこからの帰り道で少し泣いて、泣きながら歩いた。家に着いてからはやっぱりぼろぼろ泣いた。
その次の別れは8月だった。その次は12月。私はだんだんぼろぼろ泣かなくなっていった。そして今日、1月。私は思ったより泣かなかった。今回の帰省で、母に「お母さんぽい雰囲気になった」とたびたび言われた。そっか。私に縁を持った色々な物や人との別れを経験する度、私は少しずつ大人になれるのかもしれない。
長い独り言を過ぎてひかり号は新横浜駅に着いた。窓の外は夜だった。
私はたぶん、今日の富士山のことを忘れないと思う。そこまでわかって、まだ品川駅には着いていないけど、私はもう大丈夫になった。今日の姿をこれからも忘れずに心でわかることが出来たのなら、自分はこれから大人になってもきっと大丈夫だろうと、そう思った。
品川駅に着いた。降りる。
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