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負けず嫌いの諭吉

7月3日をもって1万円札の肖像画が福沢諭吉さんから、
渋沢栄一さんに切り替わりますが
私のところにはあまり長居をしなかった諭吉さんとは
どんな人物だったのでしょうか?

  • 最も強烈な逸話は「全裸グセ」

20代の前半、蘭学を学ぶことを志した諭吉は、
大坂の蘭学者・緒方洪庵が主宰する適塾の塾員として、
塾舎に住みこんでいました。

大坂といえば夏は猛暑。耐えかねた諭吉は、
塾舎の二階にある居室では、ふんどしも下着も何も着けず、
「真っ裸」で過ごしていたそうです。
ちなみに偶然訪ねて来た、洪庵の奥さんに
その全裸姿を目撃されています。

全裸で迎えに出た諭吉と、対面した奥さん。
お互い唖然として凍り付いたことでしょう。

  • 日本一の学食を目指す

諭吉は、また慶応義塾大学に造った学食改革も行っています。
明治のはじめ、当時の政府が東京の学食ランキングを行い、
結果、1位は学習院 2位が慶応大学、3位は東京帝国大学という
結果に諭吉は憤慨。
何故、慶応が2位なのか?

負けず嫌いの彼がそこでとった行動は
学食の厨房に西洋料理人を招致。
そして日本で初めて学食のメニューにビーフステーキを
出すようにしたのでした。

  • 趣味は居合抜き

諭吉は、立身新流居合の稽古を積み、免許皆伝を得た達人で、
一日、平均千本以上居合で刀を抜いていたそうで、
のちに慶応医学部の名誉教授なった土屋雅春氏は、
死因は「居合のやりすぎである」と発表しています。

  • 天気予報のマークを作った人

明治15年、彼が創刊した『時事新報』という新聞で
天気予報を掲載し、
その際に「晴れや雨を表すイラスト」を用い、
現在のお天気マークの元祖を作ったのでした。

ちなみにの掲載されたときのマークは

「曇り」はしゃがみこむ男性なのですが、意味不明です。

晴れの太陽、雨の日のマントと雨傘のイラストなどは、
いまのお天気マークの元になったとされます。

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