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すいませーん。お水の水割り2つ。#3

みなさんこんばんは、カッパです。

本日も始まりました、このコーナー。

お酒のおつまみと一緒に晩酌いかがでしょうか。

カッパとPUUは“お水の水割り"で。

ただシラフでも全然ついていけちゃう。

ご心配は無用ですよって。

さて本日の晩酌のお供は、、

“もろきゅう"

"キュウリの一本漬け"

キュウリ、キュウリとキュウリづくしの"アイツ"

カッパをお供に是非貴方の晩酌のお相手を。

なのでフリートークをしようじゃないか。

気軽に読んでもらえたらなと思ってます。

最近、思うことがありまして。

"他者は他者、自分は自分"

これって勿論当たり前の事なんです。

けど、なんか漠然としてる。

そもそも一人一人違ってて、多様性だの何だので

現代で“多様性"が認められている時代。

この多様性っていう言葉が何だか陳腐だなと。

(多様性は凄く良いことです。あくまで言葉として)

先日、よく行く居酒屋でカウンターで
久しぶりに会う友人と呑んでいました。

そこでおしぼりが足りなくなって、おしぼりを
探していた所、横にいたサラリーマンがそっと
おしぼりを差し出してくれました。

“ありがとうございます"

勿論感謝の言葉を。

その後、バスに乗って帰宅していたところ、

途中で80歳ほどのおばあちゃんが
乗車してきました。

変わりましょうかと若い男の子が譲ろうとした所

そのおばあちゃんは遠慮して大丈夫だと。

でもあまりにも年寄りの方に立たせるわけには

いけないという気持ちがあったのでしょう。

席を立ち譲ることにした男の子。

何だかその光景が微笑ましくて暖かい瞬間でした。

居酒屋の時は自分が優しさを受け、

バスでは客観的にそれを見る。

その人にとっての“普通"が自らの“普通"に

侵入してくる感じ。

サラリーマンにとって普通の行為が

僕にとっては嬉しく感じさせるし、

男の子の譲るという普通が

おばあちゃんの立つという日常(普通)に

少しのいつもと違うものを与えていた。

こうやって人の普通が連鎖していって

繋がっているんだなと感心していたわけです。

別に無理に合わせなくっていい。

自分は自分の普通でいれたらいいし、

それに同調して付いてくれる人はいる。

そんなカッパは周りに流される。

本当は自分のペースがあるのに、流されて

嫌になって結構悩むことが多い。

自分の普通で良いから歩んで行こうと決めた

バスの車内。

あの密集空間にはそれぞれの違った普通(日常)が

存在していた。

プハァ。もう一缶飲み終えたころでしょうか。

今、この書いているnoteを読んでいるのも

貴方の日常にはない事。

カッパのnoteを書く普通(日常)を貴方に受け入れてもらえたという幸福感。

改めて最後まで読んでくださりありがとうございました。

ではまた次回お会いしましょう。


roof カッパ






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