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三石巌全業績-17 老化への挑戦-1

三石巌の書籍で、現在絶版して読むことができない物の中から、その内容を少しずつですが皆様にご紹介させていただきます。


人生にも起承転結を

 起承転結という言葉がある。すべての過程がこのカテゴリーにはまるとは思えないが、例えばこのような著作物の構成にそれを求める人もいるはずである。
 西欧の思想にはこの言葉がなく、そのかわりに首尾一貫という表現があるようだ。私は少年時代から音楽を好んだ。ハーモニカを吹いたり、兄弟4人で男性四重唱を楽しんだりしたものだ。そういう私がピアノにあこがれたのは当然だったろう。しかしそれを現実に手に入れたのは29歳の年だった。独力であらわした最初の書物「物理学計算」の印税を頭金にしてローンで買ったわけだ。値段は120円という大金だった。
 私は高校時代の同期生二人をかたらって、三人でピアノの初歩のレッスンをうけることにした。教師は笈田光吉氏、当時のトップピアニストであり、われわれと同年の友人だった。彼はわれわれに上達の見込みがないと思ったのか、カデンツに重きをおいた教則本を選んだ。
カデンツとは、曲の末尾のことであり結のことである。西洋音楽の楽器曲ではカデンツの形式がきまっている。カデンツを聴いてその曲の終わりを知り、そのまとまりを知って、感慨にひたることができる。冒頭に形式がなく、末尾に形式があることの意義を、彼はわれわれに教えようと思ったのだ。
終わりよければすべてよし、ということわざがある。西洋音楽の曲は、それを地でいっていることになる。終わりがよければ首尾一貫するということでもあるだろう。
 私は音楽を論じているのではない。人生を論じているのだ。人の一生は棺をおおって定まる、ということわざもある。終わりを全うしたとき、いや、終わりの形が整っているとき、その人生も整って見えるのだろう。
 西欧にはライフスタイルという概念がある。これを日本語にすると、生活様式というような、スケールの小さいものになるが、もともとライフには、人生とか生涯とかいう意味がふくまれている。とするならば、ライフスタイルとは、人生様式というスケールの大きいものになって、その概念の重みがにわかに増してくる。私としても、衣食住のスタイルを超越して、西欧流にライフスタイルについて考えている。
 こんなふうに開きなおると、中国流の起承転結の思想が、一つの手掛かりを与えてくれる。私は、「起」を成人するまでの期間とし、「承」を子づくり子育てのつとめをはたす活動の期間とし、「転」を生物としての営みを終え、一個の人間として生きる期間とし、「結」を人生の引退から死にいたる期間としてみたらよかろうと考える。老いの使者の舞台の幕あけは、転のそれと一致するだろう。すべての人は、転の幕あけを迎えたと知ったら、ふんどしをしめなおして、老いの使者への応対を悟り、ライフスタイルにケジメをつけるのがよかろう。
 起承の二期のあいだ、われわれの肉体は自然の手に握られている。したがって、自然にまかせていれば、一人前のからだになり、次の世代を生むことができる。そのために必要な健康も、自然が保障してくれるのだ。
 ということは、承の終わりとともに自然は手を引くということでもある。自然は人間に、勝手に生きよと命ずるのだ。転となれば、われわれは自分の責任において、残された人生の舵とりをしなければなくなる。
 むろんこれは、私の描く平均的な人間の人生のラフなスケッチにすぎず、このようなことばに耳を貸すも貸さないも、各人の自由である。
 私個人としては、老化はともかく、起承転結のある人生、カデンツの整った人生を送りたいと願う。私の年齢に近付くと、老化はゆるがせにできない問題であることに気付く。下手にまごつくと、老化が人生を台なしにしかねないのである。
「一度しかない人生」ということばに重みを感じない人はいないだろう。しかしそのことばを百遍くりかえしても何も出てこない。「人生にも起承転結を」といえば、一つの指針が与えられる想いがするのではあるまいか。
 読書諸君の大多数は、転の国の住人であろう。これが起承につづくとなれば、起承がいかなる人生であったかによって、転のなかみは左右されることは疑いのないところである。しかし、転に突入したことの自覚と心掛けとによって、その人の人生の価値が定まるといって過言ではあるまい。そのための条件づくりとして、健康の自主管理が必須のものとなってくるのである。

個体の歴史

 人の一生を起承転結の四段階に分ける試みが説得力をもつためには、段階ごとの区切りとなる特有な現象を見なければなるまい。すでに述べたとおり、起は発生段階に相当する。
 ここに注意しておくが、ここで<発生>というのは生物学上の発生であって、受精卵が一人前の成体になるまでの全過程をさしている。発生が完了すれば、起の段階にピリオドが打たれるわけだ。
 このように定義すると、起と承との区切りは一目瞭然である。起の段階の個体は子供であり、起の段階をすぎた個体は成人であるから、この境界は一見してわかる性質のものだ。身長の伸びが止まり、体重がつき、大人っぽい容貌、大人っぽいプロポーションになって、一人前の身体ができあがったのだ。ここにくるまでの時間に個体差はあるが、せいぜい一割前後というところだろう。20歳を祝う成人式が、およその目安となる。
 承は種の保存を実現する時期であるとされる。しかし、この作業は起の段階でも可能であるし、以後も数十年にわたって可能といってよいだろう。この事実は、転の区切りに対して難題をもちかけたかに見えるかもしれないが、それにこだわる必要はあるまい。
 人体の全細胞数は60兆といわれる。この数字が正確なものでないことを承知の上で、私は話を進めたい。
 この体細胞の数は20歳前後から減少しはじめるといわれる。この数字も怪しいだろうが、一応これを採用しておく。いずれにせよ、細胞数の減少が、承の段階のあまりおそくない時点からはじまることは必然の現象と考えてよいだろう。自然の自己運動が人間に種の保存を保障する条件は、20歳で完成するのだ。承の段階をすぎれば正常な出産の率が低下していって不自然ではない。
 起の時期を20年、承の時期を十数年としておくが、これらの数字は正確なものではない。当然、ここには個体差がある。しかし、その個体差はあまり大きくはあるまい。したがって、起から承にかけての過程は、プログラム説によろうとよるまいと、プログラム通りに進行するかに見える。起承の二段階を終えるまで自然の自己運動は、個体を守ってくれるはずだ。さもなければ、地上における生命の誕生は根なし草となり、一場の夢に化してしまうではないか。だからこそ人間は、よほどの異変がないかぎり、全く無為にすごしても、一人前のからだになり、次の世代を生むことができるのだ。
 種の保存という承の特性は、自然の自己運動によって積極的に保障されているとはいえないが、惰性によって転の時期に引きつがれる。それは、種の保存という目的の名残りがあるということだ。その名残とともに個体の保存も名残りとして存続する。本書には、生体の<合目的性>ということばが反復して出てくる。これは、種の保存という大目的の遺物に対しても使われる。
 ここで、体細胞数の現象の問題に立ち帰ってみよう。ある学者の推定によれば、80歳になると、体細胞の数は三分の二になってしまう。起段階の細胞数が60兆だとすると、80歳ではそれが40兆個になるという計算だ。それは、ある国なりある企業なりの成員が三分の二に減るのと同様な意味をもっている。これが、余剰人員の整理なら大勢に影響はないだろうが、能力ある人材の首切りとなると事は重大だ。それに相当する状況が、人のからだにもある。だから転の段階になれば、健康上のいかなる故障がおきてもおかしくないと言ってよい。そこには自然の自己運動に抵抗するという意味において、いわば、逆境に生きる覚悟がいる。起承の時期にはどうでもよかった健康管理が予想外の重みをもってくる。しかもその重みは日ごとに加えられてゆく。これを意識せずに高い健康レベルが保たれるとすれば、それは全くの偶然にすぎない。
 前述のように、体細胞数の減少が60年間に20兆個だとすると、毎年平均3,300億の細胞が失われる計算になる。これは1日平均約9億に近い。昨日に比べて今日は9億個だけ少ない細胞で生きてゆくということだ。これが承段階にはじまる現実だとすると、すべての大人はうかうかしてはいられないことになる。
 承の段階の人間に自然が課した使命を考えると、ここを起点と知る細胞数の減少は大きな支障をもたらす程度のものではないはずである。それは、起の段階で用意された細胞数にゆとりがあるということであろう。
さらにまた、その減少速度が小さいということでもあろう。要するに、細胞数の問題が全存在をおびやかすほどエスカレートするのは、転にはいってからのことだ。

細胞が死ぬと

 細胞は四六時中、あっちでもこっちでも死んで、その数がへってゆく。それも、起の段階がすんだ20歳から始まるという。全く淋しいことだ。
しかし、そのことに、承の段階にいる20歳代の若者たちは気付かない。細胞数にゆとりがあるならば、気付くはずもないだろう。
 いずれにせよ、細胞の死亡率が終始不変だとは考えにくい。
 原則として、生命活動の条件は加速度的に悪くなる。
体細胞数の減少は年とともに急速になる。とはいえ、その下降曲線には大きな個体差があるはずだ。この下降の足どりをスローダウンすることが、老化への挑戦の目標となるだろう。80歳の時の細胞数が、50兆の人もあり30兆の人もあり、というのが現実の姿ではあるまいか。
 昔から還暦ということばがいわれてきた。こよみが振り出しにもどるというほどの意味だろう。こよみは振り出しにもどっても、体細胞数は振り出しにもどりようがないのだ。
 <パーキンソン病>という名の老人の病気がある。顔の表情がなくなり歩行がおかしくなるのがその兆候である。脳内に<黒質>とよばれるメラニン色素をふくんで黒い色をした部分がある。そこからは<ドーパミン>とよばれる脳内ホルモンが分泌されるのだが、パーキンソン病患者では、その量が不足してくる。仮面顔貌も歩行障害もそこからくるとされている。そこで対症療法として、ドーパミンの前駆体であるLドーパを投与することになる。
 このパーキンソン病は、黒質細胞の数が二分の一以下になると発病するといわれる。もしそれが70歳でおきたとすると、その人の黒質細胞数の減少速度が異常にはやいと考えなければならなくなる。そして、その人の他の組織での細胞の減少速度がそれほどはやくないことは十分にありうると考えてよい。体細胞の死亡率が、同じ人でも部分によってちがうという事実を、パーキンソン病は語ってくれる。
 ところで、細胞が死ぬ話になるが、死の原因が何であるかをあげてみよう。それは遺伝子DNAに損傷がおきたとか、DNAにクロスリンクができたとか、細胞質に環状DNAがあらわれたとか、さまざまな原因によって、形態的・機能的に異常な細胞ができることなどである。このような<非自己>に対しては免疫機構が働くはずである。結局、自己を保全するために非自己は排除されることになるのだ。そして、細胞の死、細胞数の減少が結果する。
 免疫機構が完全ならばすべての非自己は排除されるが、これが完全であることは期待できない。とくに<胸腺>とよばれる免疫機構の中心器官の細胞数が不足の場合、そのような結末になる。<ガン細胞>という非自己細胞が増殖するのは免疫機能の不備の結果といえないことはない。
 細胞の死は異型のものにだけおこるのではない。例えば、細胞膜が、機械的に、あるいは酸化によって破れたとき、その細胞は死ぬ。
 細胞の死体の処理にあたる清掃役は、大食細胞ともよばれる白血球のなかまの<マクロファージ>である。マクロファージは活性酸素を発生し、それを武器として死細胞を処分する。仕事を終えたとき、マクロファージは分泌細胞となって繊維状タンパクをつくって、死体の穴をうめる。これによって、細胞の死んだあとは、結合組織に変化する。細胞が死んだからといって、からだが小さくなるわけではないのだ。このとき、からだは縮むかわりに結合組織化して硬くなる。その象徴的なものが<肝硬変>だろう。
 リンゴを箱につめるとき、昔はよくもみがらを使った。リンゴが小さいときもみがらの量を多くすれば、それは同じ大きさの箱にちゃんとつまる。ただし、リンゴの実質の量は少ない。これがご老体の現実というものにほかならないのである。老人のからだは詰め物が多い。
細胞と細胞との間の結合組織は、いわゆる<細胞間質>を作っている。
原則として、同じ組織に属する細胞は、相互にコミュニケーションをかわしている。
それでなければ協調は不可能になる。組織の合目的性のためは、細胞同士の協調がなければならないのだ。それには、加齢とともにふえる細胞間質が邪魔になる。これによって、協調はやりにくくなるからだ。故障車が出ると道路交通が渋滞するのと同じ現象がおこる、と考えてよい。
 そればかりではない。栄養補給の問題もある。栄養物質は毛細血管壁からにじみだし、細胞間質を通過して細胞に与えられる。細胞間質が増えると、このルートが長くなるから、それだけ栄養の供給は悪くなる。
 細胞の死がもたらすデメリットは、働き手の減少だけに止まらない。細胞の墓が障害物として立ちはだかるのだ。故障車があいだにはさまると、道路交通が渋滞するが、これと同じような現象がおこるのである。

【三石巌 全業績-17「老化への挑戦」より抜粋】


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