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SDGsに基づく行動なら絶対的に善であるのか?

貧困地域の人間は決してお前の自己実現のために今日お前と同じように息を吸って吐いてご飯を食べて働いて眠っているのではない。

個性尊重と行動の絶対視化
SDGsによる問題の単純化
少子化による若者への過剰な焦点

これらの事柄は”他人の課題を食い物、生きがいとして生きる人間を増やしている”

そう思ってならない。

これまで様々な活動家がおり、経済的な8点があり、各種指標において貧困というものは絶対的に減ってきている。

それはおそらく多少統計にズレはあれども”正しい”のだろう。

そしてそれは人類として生きる上で大変好ましく思う。

そのような時流の中で生を受け、育てていただき、社会活動と評していただけるような活動を実施している。

その中でその性質上ミクロでしか見ることができていないのだが、”支援や寄付の失敗”というものを目にする機会がある。
稀にあるという程度ではなく、3つ村を訪問すれば1つは目にするという頻度である。

そして同時に思う、なぜこのような活動を善意のもと人間はするのか。

その答えは簡単である。

”誰かの課題を解決する”

ことではなく

”自らの気持ちに基づいて定義した特定地域の特定の誰かの特定の課題を解決する”

ことをしているからであり、また同時にその短期的成果は社会的評価を得やすく、その社会的評価はまたその行動主体である人物を人物たらしめ、その活動を促進するからである。

その両者が重なる時は当然実際に現場の課題は解決され、その結果として各種指標において”貧困は減り課題は減って”いるのである。

そしてその統計には決して現れることがない、失敗事例、すなわち”課題が増えた”ということは社会的称賛の声と共にかき消され、そこに残された人間の課題を増やしたまま去っていき、その行動主体は社会的名誉を手にした人生を送ることになる。

このことはそこに賞賛を送る人間にも無関心でいる人間にも、当然その行動主体にも責任があるものであり、私がこのことを書かないことにも責任があるという一点において書いている。

外部環境が原因で努力できない人を増やすような活動が目に余る以上、すなわち私の生きる目的に反する以上、その反対に働く採用を止めに行くことは自然な決断である。

どこで誰にどう思われていようとも私の目的は

生まれた環境や生きて生きる環境が原因でどんなに小さな目標をもったとしても諦めるしかない人間を放置せず、機会を提供すること

それに尽きるのであり、

みんな仲良く手を繋いで笑って放置したり無関心でいたり課題を増やしたりすることなど私の倫理観も感情も許しはしない。

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