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輪るピングドラム(アニメ版&劇場版) 感想

過去アニメを漁る中で、段々と自分の好みがなんとなく分かってきた。
それはズバリいわゆる「セカイ系」と分類される雰囲気を纏う作品だったりするらしい。身近な日常の中で萌芽する男女の情愛が突如襲う世界の危機に際して行動を起こす大きな契機になる…といった筋書きが多い。ハルヒとかエヴァとかまさにそうだと最近気づいた。
しかし、今回の作品は果たしてその枠組みに入れていいものか、そうした枠組みにジャンル分け出来たとしても、この作品を受け取る側である私自身に何の還元もされないまま、「透明」になってしまう気がしてならない。だからこそ、今回は無軌道に、でもいつものように要所要所で感じたことを箇条書きに起こすのではなく、全体を通して感じたことをここに記録して、少しでもこの作品から「何か」を受け取る努力をしたいのである。



長くなるが、この作品に出会うきっかけから綴っておきたい。

先日オタ友と池袋周辺へプチ旅行に行った際、ついでに買い物でもしていこうかとサンシャインシティへ馳せ参じた。時間があったら水族館にも行こうかと無類のペンギン好きだという彼女の提案で向かうことにした。
しかし、平日だったこともあり当日の受付は終わっていた。残念だね…また次来るときは空飛ぶペンギンを見に行こう、そう言いながら友人と二人で次の目的地へ向かうため地下鉄に乗り込んだ。
この作品を観たあとではあまりに出来過ぎた話に思えてしまうが、これは私がこの作品に出会う数日前にあった本当の出来事なのである。観光の疲れを取るため自宅で過ごす最中、ふいにyoutubeのおすすめ動画欄にペンギンの帽子を被った少女と「期間限定配信」という文字列でなんとなく開いたアニメ版第一話をタップしたのは、少なからずこの出来事が運命的に作用したのではないか、などと都合よく現実を解釈したくなる。それほどに、この作品における「運命」という概念が色濃く印象に残り、私自身の現実世界の中でも作用していることを望みたくなったのだ。


私は、人の人生における様々な困難に対して考えうる原因について、「環境論」もそれに反する個人の裁量や能力によるものとする考えも、どちらも一理あると思いつつもっと違う考え方があるのではないかと常々感じていた。
だからこそ、陽毬が冒頭で放った「私は運命って言葉が好き」という言葉にひらめきを得た。それまで「運命」というのはどちらかというと環境論的な考えに近いように思えていたが、あの世界における「運命」とは環境や能力、生き様全てを包括したその人自身のあり方であり、それを共有し、互いのあり方を認め合うことこそが「運命の果実を一緒に食べる」ことだったりするのではないかと思う。同時に、苹果が果たした「運命を乗り換える」ということは、その人のあり方を変容することで他者に分け与える「隣人愛」を実現させることなのではないか。

「環境論」はあまりに怠慢かもしれないが、変えられずとも共有することだったり、時には変容させることができるという点で「運命論」は自らのあり方に嘆く人を救済してくれる。このことに気づいた瞬間、初めて私は画面上の彼ら彼女らだけでなく、私自身が救われたような気がした。皮肉にも、歪んだ宗教観が生んだ悲惨な事実を少なからずモデルにしているこの作品で、私は擬似的に救いを得た信者のような心持ちになったのだ。それだけ、「透明な存在」になることを恐れる人に差し伸べられる救いというのは善悪表裏一体であり、それもまさに作品全体を通して表現されていたと感じる。


「僕たちだけじゃない、この世界に居るほとんどの子どもが僕たちと一緒なんだ」

「運命の乗り換え」が果たされた後、多蕗が放ったこの言葉には少し違和感を覚えた。恐らく彼は世の中の子どものほとんどが無意識に家族という呪いに縛られている(実際彼がそうであったように)ことで、家族から求められなくなった途端「透明」になってしまうと感じているのではないだろうか。確かに、年端のいかぬ子どもにとって家族は世界そのものであり、拒絶されれば世界そのものから消されてしまうことと同義に感じてしまうことは想像に難くない。しかし、現実世界の子どもたちが片っ端から家族に拒絶されているのかというとそんなことも無い。この点はほんのりとセカイ系と評したくなる自己中心性を感じる。
ともすると、この一言は受け取る画面外の私たちに自らやその周りはどうかと他者への関心を向けさせる「隣人愛」を無意識に実践させているのかもしれない。その通りだと感じた人間がどのような形でそれを実現させるかによって、この作品が手渡した苹果は形を変えてつながっていくのだろう。


未だに全体通して理解しきれていないのでしばらくはアニメからもう一度「輪る」ことになるだろう。これ以上深堀りしようにも却って浅くなってしまいそうなのでここで区切りにしようと思う。

最後に、物語の大きな輪の最後に透明でなくなった彼ら彼女らから手渡される「愛してる」を受け取り、ふいにある曲が浮かんだので記しておく。
主題歌や挿入歌とは違う作品とは全くの無関係の楽曲であるが、どちらも「醜いながら愛をともに紡ぐ」ことをテーマにしているのではないかと思う。
一人ひとり違う方法で紡ごうとしていた愛を、最後の最後で「愛してる」という言葉に集約させた意味を、今一度考え直したい。


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