『鶴梁文鈔』巻十 訳(完)


山は高くないものでも水のそばにあり、水は深くないものでも山を育ててい る。そばにあるものは紫、育てるものは澄んで明るく、さらに緑の木、赤い花が美しく彩り、自然の趣をなしているのが、わたくしの住む麻布である。わたくしが職を辞して麻布に帰ると、山がわたくしを迎えるかのように素晴らしい景観を見せ、谷川が喜ぶかのように水音を聞かせる。山川の霊とわたくしとが昔なじみだからである。わたくしは麻布を、王羲之の山陰、林逋 りんほ (宋代の隠者)の孤山にたとえている。もとよりその優劣を考えたことはない。ちょうど人が自分の妻子を偏愛するようにならざるをえないのと同じである。昔、張子高は妻のために眉を描いてやり、王懐祖は大きくなった子を抱き上げて膝の上に置いたという(この故事の出典は不明)。わたくしが麻布の名勝について述べるのを聞くと、人はおそらく、妻の眉を描いたり子を膝の上に置いたりするようなことだと言って笑うかもしれない。もとよりそれは辞さないところである。文久癸亥の年十一月三十日、鶴梁老人記す。

麻渓紀勝

桜が咲く山の姿
花が満ち満ちている様子は雲かと思われ、色は艶やかである。翻る様子は鷺かと思われ、淡い香りがある。その姿は妖艶で、また風流な趣がある。柳の花とは比べものにもならない。まさに桜花が春めいた美しい姿を誇っているのである。江戸の人は、往々飛鳥山や隅田の花を賞する。それらの場所に花が多いからである。相馬氏の邸内には幾つもの峰がそびえ、盛り上がっており、その地は静かで趣深く、花とともに称賛されている。これが麻布第一の名勝である。しかし飛鳥山・隅田と比べると、花はそれらの半分も見えない。とはいえ、飛鳥山・隅田は、見物人で混み合っており、まことに殺風景である。この麻布の花のみが風雅で清らかな場所にあり、少しも塵で汚れた様子がない。その点では飛鳥山・隅田にもまさっているといえよう。単に麻布第一というにとどまらないのではあるまいか。

曲径の躑躅
桜の山の中腹にひとつの小径があり、左右に躑躅が咲いている。その咲く時期は桜花に近い。紅白数種あり、錦の屏風を並べたように咲き乱れている。山頂の景観を見尽くすと、山腹の見事な景が見られる。小径のすぐ下が相馬氏の馬場で、艶やかな花の姿が、駆け巡る馬の影の間に照り映えるさまは、また山谷の景色に彩りを添えるに十分である。

松の丘と鶴
丘は桜の山と相連なり、西の方にうねうねとそびえている。これもまた相馬氏の邸内にある。丘には古松が数本生えており、枝は折り重なって傘のようになっている。青々とした葉は、四季を通して色を変えない。松の辺で鶴が鳴くさまは、また清らかな趣がある。

三台の笑靨花
三台の伊沢氏の庭には、笑靨花(シジミバナ)が満開である。白く艶やかで、人を喜ばせるものである。それにしても、世の中には笑ってしまうようなことが数多いが、笑靨花はどのようなことを笑っているのだろうか。

楓の丘と朝日
楓の丘は桜の山と向かい合っている。季節を迎えて紅葉すると、朝日に照らされるさまは霞のごとく、また錦のごとくである。道行く人が立ち止まって見入るに十分であろう。丘は石川氏の邸内にある。

西山の黄葉
秋の景色でもっとも素晴らしいのは、黄葉を夕日が照らすところである。真田氏の邸内にある山は、様々な木が茂っており、秋になって葉が色を変えると、林のさまは一変する。秋の景色でもっとも素晴らしい場所は、ここ以外に求められようもない。菅茶山のような詩人だったら、この山に住居を定めるであろうか。

山頂の芭蕉
西山の頂に芭蕉が数株ある。高さは皆一丈あまりで、緑の葉は巻き上がりまた広がり、風に翻り雨にそよぎ、瀟洒な趣がある。ことに喜ぶべきは、我が家が西山の下にあり、毎日この芭蕉と向かい合っていることである。まるで山頂の芭蕉が、わたくしの庭のものであるかのようである。

山中の庵と雲の影
西山の中腹に、隠者の草庵がある。その様子はのどかで自由であり、庵に入って琴を弾じると、極めて奥深く玄妙な気に満ちる。昔わたくしの詩友である雲如山人(江戸後期の漢詩人)がこの庵に住み、わたくしと親しく交わり往来していた。そののち山人は山を出て、久しく消息を絶っている。山にかかる雲の影を眺めるたびに、山人を追憶しない日はない。

仏堂の香の煙
永昌寺の門内に、ひとつの小さな仏堂がある。毎日香が焚かれ、煙が立ち上って絶えることがない。昔、土岐丹波守が作事奉行であったとき、幕府の命を受けて、浜御殿の門外の石垣を改築した。石垣の下の堀は海に通じていた。これに先立って海で溺死した者が、海水に乗って堀の中に流れ込み、枯れた骸骨が石垣の下の欠けたところに積み重なった。これを見て、人夫が運び出して丹波守に見せた。丹波守は一目見てかわいそうに思い、ついにその俸禄を投げうってこれらの骸骨を運び、埋葬した。骸骨は百八もあった。いま、香の煙が絶えない仏堂は、丹波守がこれら溺死者の霊を弔うため建てたのだという。あぁ、丹波守は仁の人であることよ。いまはすでに隠居して月堂と号している。

南部坂の明月
険しい坂があり、そのそばには昔南部氏の邸があった。ために人は南部坂と呼んでいる。坂は東南に面しているので、月は坂の近くから登るのである。清らかな月光はまず坂のてっぺんにさしこめ、もっとも高くなると、月は杯に浮いているかのように透き通り、やがて光は麻布一帯にさして、月影があちこちに動き回り、水や林を照らす。坂の上で振り仰ぐと、あたかも天界の楼閣にいるかのように思える。

園中の梅花
花の中で清らかで優れているものといえば、梅にまさるものはない。そのすっきりとした姿、かすかな影や香りは、人に軽やかな、超越したような気分を生じさせずにはおかない。わたくしは、最近園中に梅を植えたが、数百株になると、軒や窓と向かい合い、かつて林逋が詠んだ孤山を思わせるものがある。しかしわたくしはこれを見て、これまでまったく涙を流したことはなく、梅花に対して悪いことをしただけでなく、林逋の高潔さに対しても恥じるものがある。いま老いて職を辞し、ようやく暇ができたが、林逋の霊と花の神とは、親しく交わることを許してくれるかどうか。

白い花と月影
わたくしは、はなはだ白く美しい花(素芳)を愛している。園をひとつ作って、そこに梅・梨・スモモ・茶・クチナシ・水仙・水晶花などを植え、その中に居を構えて、十七種素芳堂と名付けた。額は白い絹で作り、鍋島直正公に書を乞うた。そして屏風・壁掛け・机などの調度品は、皆色を白くした。白い月が輝くたびに、わたくしは堂上に座して、白い花の、圧倒せんばかりの清らかさを感じるのである。

北の谷の竹藪
わたくしの庭は、黒田氏の邸の北側にある。そこには数十本の竹が、谷のきわに生えて林を作っており、その幹はまっすぐで天を突かんばかりの勢いである。これを見ると、しぜんと凛々たる清冽な気が起こってくるのである。

丘に集まるウグイス
この丘の上には低い竹や木が生えている。井上氏の所有するところである。日向に面していて、後ろが日陰になるので、冬も至って暖かで、ウグイスが多く集まってくる。春・夏になると、鳴き交わすさまはまことに愛らしい。

東の丘の木筆
東の丘は戸田氏の邸内にあり、木筆(コブシ)の木が一本ある。その高さは数丈、花が開くと木は鋭く尖った形となり、遠くから見ると、あたかも神仙が筆を握って空中に字を書こうと、白雲の上に立っているかのようである。単に山谷の間に照り輝いているというだけのものではない。

坂下の暁の鐘
西行寺は道源坂の下にある。暁となり鐘が鳴ると、山谷に響き渡り、かすかに残る雲や沈みゆく月も鐘の響きと戯れるかのようで、また清らかなふんいきがある。わたくしは長年激職にあって、毎朝この鐘の音を聞いて起き、沐浴し髪を整えて出仕した。いま、職を辞して、夜になると朝まで高いびきで眠ってしまうようになり、かつてのように鐘の音を聞くことはなくなっている。

畝に植えた林檎
庭の畝には様々な木が混じって植えられているが、林檎の実だけがよく熟す る。皮は赤くつやがあり、味はことに甘く、仙家の珍味ともいうべきである。

南の丘の桐
南の丘は某氏の家の園にある。桐の木が二、三あり、高さは数丈あって、夏には日光を防ぎ、葉はよく茂って良い日陰となる。ある人がこれを伐って琴を作ろうというのは、無風流もはなはだしいといえよう。

坂の上に見える奇怪な石
麻布には石の名所がある。道源坂・南部坂・雁木坂などがそれである。坂の上には奇怪な形の石がいくつもある。石を好んだ宋の米芾がここを通り過ぎたら、百回拝礼する暇もないほどだろう(米芾は奇怪な石を好み、それらを見ると必ず拝礼し、石を兄と呼んだという)。しかしわたくしは単なる無能者にしかすぎず、米芾のような人と違う飛び抜けたところはまったくない。この「石の兄上」を見るたびに、恥じ入って嘆息するばかりである。

南の谷の野菜畑
この谷にある野菜畑は、碁盤の目のようになって色鮮やかで、落花や新緑、霞に包まれた草むらに混じっている。野菜の花が日に照り映え、かすかに香りが風に乗って立ち込めている。じっと見つめると、心がのどかで爽やかになる。わたくしが野菜を好むのは、貧しい暮らしに慣れているからである。空腹を満たすに十分な味と、目を楽しむに十分な色をもっている野菜は、わたくしを助けるところが非常に大きいのである。

古淵の蛙の声
麻布は、二百年前は十分の七が水で、山は三つほどであった。旅人はその山上からの眺めに飽きて、不満に思っていた。そののち山と水が逆になって、山が水を圧倒するに至った。しかし小笠原氏の邸内に、古沼がひとつあり、淵は深く、水が溜まって渦巻き、光り輝いて鏡のようである。あちこちに浮藻が見え、その中に魚やエビが泳いでいる。日照りが続いても水は枯れず、その澄んだ水は山や丘、竹や木を映して照り輝き、昔から小川が残っているのを見ることができる。沼には蛙の群れが住んで、盛んに鳴き声をあげ、楽器を演奏しているようである。古老は、愛宕山の麓の桜川の水源は麻布の谷川である、と言っている。地誌を見てみると、麻布に桜川という川がある、と記されている。これに従って考えると、愛宕山の麓の桜川は、麻布の谷川が水源である。そして、その谷川の水源が、小笠原邸の古沼なのであろうか。

堀江氏の園の檜
幹がまっすぐで天に達するほどに高く、三谷(麻布付近の町名)にあってもっとも凛然としているのは、堀江氏の園の檜である。その勇ましくたくましい姿は、頑強な性質を想像するに十分であろう。

三谷の桃花
三谷には武士と町民が雑居しているが、その中に隠者が逗留している家があ る。それらの家には古くから桃花が植えられて林となっており、あたかも玄都観(長安にあった道教の寺。劉禹錫がこの寺の桃花を詠んでいる)のようである。わたくしはかつてここに居住しており、去ってから再び訪ねて次のような詩を作った。「わたくしが住んでいた小屋はどこにあるであろうか/春の小道を懐旧の情にひたりつつ徘徊している/千もの桃花はいぜんとして咲いている/それらはわたくしが去った後に植えられたのではない」

高台の雪景色
三谷には、大久保氏の邸があり、その傍らの土地は大変見晴らしが良く、土地の人は台とよんでいる。台の上からの眺めが特に良く、もっとも素晴らしいのが雪景色である。三谷台とわが家の庭とは離れて向かい合っている。わたくしは庭から、雪を踏んで台を通る者を見た。みな立ち止まって景色に見入っていた。わ たくしが東郭先生(前漢時代の名士。貧しく履が破れていたので、素足で雪を踏んで歩いた)のように雪の中を歩くのを望むばかりでなく、興に任せてわが家の前までやってくる人もいるのではないか。

酒屋の青い看板
鹿島氏が小さな青い看板を掲げて、酒を売っている。買う者は日々にドンドンと増えている。なぜかといえば、売っている酒がまことに芳醇だからである。何事も、実質的に優れていればしぜんと人が集まってくる。必ずしも自分から売り込む必要はないのである。

椎橋氏の庭池
庭に珍しい木を植え、池に美しい魚を飼い、日夜これらを見て楽しみつつ一生を終えたのは、老後の椎橋先生(幕臣で学者と思われるが詳細は未詳)である。先生の美しい庭池は、門内の奥深いところにあったため、これを知らない人が多かった。先生は生来善良で、騎射に長じ、かつ慎み深く見たところは無能者のようであった。ために人はその学問の奥義をうかがうことはできなかった。それはちょうど、人がその庭池の美しさを知らないのと同じであった。わたくしは若年、先生とともに騎射を学んだので、深く先生を知ることができた。いまや先生はすでに世を去った。その家の門を通り過ぎるたびに、わずかに庭の梢を眺めることができる。そして、先生がかつて弓を引き馬を走らせていたさまを思い出すのである。

鶴梁の夕景
かつて、ある人が鶴梁(橋の名と思われるが読み不明)で麻布の全景を見尽くすことができる、と言っていた。その昔、都の人(原文「都人」は江戸の人か京都の人か不明)が谷川の鶴をここから見たので、このように名付けたのである。いまは林や屋根が邪魔になって眺めにくくなっているので、旧名はもはや意味をなしていない。わたくしは毎晩この橋を渡るたびに、時代の移り変わりを感じずにはいられない。

雁木坂の眺め
麻布の全景を、一目で見尽くすことのできるところといえば、雁木坂があるのみである。坂は麻布の東、もっとも高いところにあり、そこに登って目を注ぐと、麻布一帯がことごとく見え、美しい水も奇怪な石も、見えないものはない。そして山や丘のすぐれた景色が、次々と広がり、四季を通して変わらない絶景を十分に楽しむことができ、目も心も満ち足りて、仙界に遊ぶかのような思いとなるのである。自由人は山水を好み、万里の外まで跋渉することによって満足するのであり、狭い一ヶ所の散策にとどまりはしない。わたくしはとくに麻布を愛するので、ここにとどまっているのである。またわたくしはそれほどつぶさに名勝を見ているのではない。遊んだのは家を出て数十歩の地のみである。ちょうど犬が路地から出ずに歩き回って、散歩を楽しんだような気になるのと同じである。もし乗物や馬で遠出し、高山や大河を見ることができたら、その驚きは犬が日に吠え雪に吠えるがごとくであろう。ここに跋文を記す。(了)

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