『鶴梁文鈔』巻6 訳

烈士喜剣の碑
喜剣はどこの人であるかわからない。あるいは薩摩藩士であるともいう。気 骨ある人であった。元禄年間、赤穂藩が改易となり、大石良雄が京都に移った。このとき彼が復讐を図っているという噂が盛んに起こっていた。良雄はこれを恐れ、いつわって歌舞音曲にふけり人の口を塞ごうとした。ある日、彼が島原の女郎屋で遊んでいると、ちょうど喜剣もそこへ遊びにやってきた。喜剣は良雄と面識がなかったが、世間の噂がいつわりでないことを心ひそかに願っていた。しかし彼が長いあいだ遊びほうけていると聞いて、非常に不快に思った。そして良雄を招いて、同じ部屋で飲んだ。そしてそれとなく彼を諌めたが、良雄は応じなかった。そこでさらに繰り返し直言したが、良雄はなお応じず、平然と談笑し、承知する様子はなかった。すると喜剣は目を怒らせて、大声でののしり「おまえは実に人面獣心の者だ。主君は死し、国は亡びたのに、おまえは重臣でありながら仇に報いることを知らないとは、獣でなくてなにか。わたしはおまえを獣として扱うぞ」と言った。そして左足を伸ばして、魚のなますを数切れ足の指先にのせ、良雄に食わせた。良雄は平然として首を垂れ、食い終わると指の先をなめた。このとき良雄のけらけら笑う声と、喜剣の激しい罵声とが部屋の外まで聞こえた。それからしばらくして、喜剣は江戸で公務についていたが、赤穂の者たちが復讐したと聞き、それについて人に聞いてみると、同志は四十六人で、良雄はその長ということであった。喜剣は愕然として「あぁ、わたしは死ぬであろう。わたしが獣を見るような目で良雄を見たのは我が目の罪である。良雄を獣のようにののしっ たのは我が舌の罪である。足になますを乗せて獣のような食べ方を良雄にさせたのは我が足の罪である。心の中で良雄を獣扱いにしたのは我が心の罪である。一身皆罪なのだ。あぁ、わたしは死なねばならない」と言った。そして病気と称して国に帰り、公私ともにすべて片をつけ、ふたたび江戸に戻った。すると良雄は同志たちとともに死を賜り、江戸の泉岳寺に葬られていた。そこで喜剣はその墓に詣で、拝して「わたしは地下で貴殿に対してお詫びしよう」と言い、すぐに刀を抜き腹を切って果てた。ある人が彼を良雄の墓のそばに葬った。そもそも喜剣は、最初は良雄とまったく面識がなかったが、彼が義挙を起こすことを願い、彼に会うと直言し忠告して、さらにののしり辱めるに至った。そして最後には身を殺して志を明かし、その罪を謝した。真に正しいことをした人物ではないとしても、その気骨は古の義俠の士に劣るものではないであろう。中西伯基もまた気骨の人である。彼はつねに忠臣烈士のことを好んで語り、やめることがなかった。以前、喜剣がこのような気骨ある人物であるにもかかわらず、世にほとんど知られていないのを残念がっていた。そしてひとつの墓を泉岳寺に建て、その事績を略記し、後人に示そうと考えていた。そこでいくらかの金を寄付し、さらに文章を書くようわたくしに頼んできた。わたくしはそのとき二十七、八であり、まだ墓に彫るような文字を記したことがなかったので固辞したが、うんと言わなかったので、これから文を十年学んで、そのあとで記そうと約した。そのときわたくしは非常に貧しかったので、伯基はわたくしが自活できるだけの金を残してくれた。それ以来はるか二十余年を過ぎて、いま伯基は六十歳を越え、わたくしもまた五十余歳となり、ともにすっかり老いている。わたくしは文章を作り、金をも出し、伯基に渡して、両方ともに約束を果たした。あぁ、喜剣の死に方は立派だが、伯基の行ったこともまた立派である。ただわたくしの文が立派といえないのが残念である。

桂光中根君戦跡の碑
君の名は正照、中根氏、通称は平左衛門、桂光はその法名である。三河の人である。東照公は諸将の中から勇敢で善戦する者を選び、十八の隊長を置いた。中根君はその一人であった。公が武田信玄と戦ったとき、君に二股城を守らせ、青木貞治がこれを助けた。信玄はその子勝頼らを遣わし、数万の兵を率いて城を包囲させた。城中の兵は千に満たなかった。君は兵を励まして固く守ったので、敵は数日かけても落とせず、火矢を放って城を焼こうとしたが、君は臨機応変に動いて城を救った。また敵は矢文で降伏を勧めたが、それに応じることはついになかった。そこで敵は夜になって風雨に乗じ、その水路を絶った。そのため城中はいまにも渇死しそうになった。君は信玄に使者を出し、自殺して士卒のいのち乞いをしようとした。信玄は君の義勇に感じ、ついに君とともに使者を釈放した。このとき東照公が急を聞いて、自ら兵を率いて救援に駆けつけたが、城はすでに落ちていた。公はこれを知って喜ばなかった。君は恐れて磯下村で謹慎し、処分を待った。数ヶ月して公と信玄とが三方ヶ原で戦った。君は貞治と計って「ここが我々の死に場所である」と言った。そして敵中に突入し、縦横に奮戦して死んだ。一族でともに死んだ者は三人おり、喜蔵・彦三郎・市右衛門と言った。元亀三年十二月二十二日のことであった。君には一男がおり、正弼と言った。このときはまだ幼かった。その母が常州水戸に彼を連れて行った。成人して城主佐竹氏に仕え、軍功によって隊長となった。佐竹氏が羽州秋田に移封となると、奥州磐城に移った。あぁ、君が二股を守ったときは、その義勇は敵将を感動させるものであったが、東照公は喜ばなかった。のち三方ヶ原で戦ったとき、一族四人がともに死んだ。しかし公はその遺児を取り立てなかった。これは訳があるのであろうか、天命であろうか。君の十四代の子孫である正贇 まさよし が、君の事跡を記して石に刻み、三方ヶ原の、君が戦死したところに建てようと思い、実稼 じつか 生(鶴梁の旧友である日下部伊三治 いそうじ の号)を通してその家譜をわたくしに見せ、文を頼んできた。わたくしは正贇と面識はなかったが、実稼が請うので辞することができず、家譜に従ってこのように述べたのである。

菅沼琉山の碑
琉山の名は定俊、通称は弾正左衛門、菅沼氏、琉山はその号である。本姓は土岐氏で、代々美濃に居住した。七世の先祖定直は土岐頼清の玄孫である。永享年間、将軍義教の命を受けて三河の菅沼俊治を討ち、勝利した功によって菅沼の地を賜った。これ以来定直は美濃から菅沼に移ったので、姓を菅沼に改めたという。長禄年間に松平泰親公に仕えた。定直の子資長は田嶺城を築いて居住し、松平親忠公に仕えた。延徳年間、井田の戦いで力戦して功があった。定成・ 満成の二人の子があった。満成は背いて今川氏に属し、田嶺三千貫の地を領した。その子定通は遠州の城東きとう 榛原 はいばらの二郡を領した。その子元成は、別に長篠城を築いて移った。これを長篠菅沼氏と称した。元成の孫は元貞、元貞には二人の子がおり、長男は貞景、次男は琉山である。貞景の子正貞が継ぐと、琉山は叔父であることから彼を補佐した。正貞は初め東照公に仕え、のち武田氏と和を結んだ。武田氏は政道が衰えており、三河にある将士は、次第に背いて徳川氏に従うようになった。このとき東照公は武威日々に盛んになっていた。正貞は孤城に拠り寡兵を率いて、独り徳川氏と戦おうとした。人々は支えきれないことを知っていたが、正貞は屈しなかった。琉山は大義・利害を述べて、言葉を尽くして諌め、さらに死のうとまでした。正貞はようやく感悟し、徳川氏に降伏しようとした。武田氏はこれを知って怒り、正貞を捕らえて監禁した。彼はついに獄中で死んだが、志を変えることはなかった。武田氏が滅んでから、東照公はその節操に感じ、彼の遺児である正勝を召し抱えて、五百石を与えた。琉山はすでに正貞を諌めたので「自分の仕事は終わった」と言い、飄然として世俗を離れ、吉村に退居して、山水の清らかで静寂な中で詩を詠みつつ余生を送り、七十三歳で死去した。天正元年七月三日のことである。吉村の原に葬られた。当時の人々は皆、彼はその時を知り、一族を思い、出処進退がよろしきを得ていたのを称えた。その子定昌は家を宇川に移し、子孫は代々農業を行った。そして家は十代のちの定春まで裕福であった。幕府が海防の設備を整えていたとき、定春はいくらかの金と材木とを献じて、これを助けた。幕府はこれを賞し、定春とその子に菅沼氏を称することを許した。定春は「これもまた先祖が恩恵を残してくれたのである」と言い、琉山の事績を記し、石に刻んで長篠城址に建てようと思い、その家譜を持ってきて、わたくしに文を乞うた。わたくしはその行いを喜び、家譜に従ってこの文を 書いた。そもそも菅沼氏は三河の名家である。一族は皆繁栄しているが、琉山のみは山野に隠れ住んでいる。その徳は賞すべきであるが、その名は埋もれている。いま、定春が碑を建てて顕彰しようとするのは、孝というべきであろう。

那須田又七の碑の銘
那須田又七は、遠江舞阪の人である。先祖は豊臣氏に仕えていたが、大坂が落城してから、舞阪に逃れて、その系図は散逸してしまい、詳しいことはわからない。父は先祖代々の農民であった。又七は幼くして聡明で、遊ぶことを好まず、八、九歳にして、書や計算を学んだ。そして毎日水垢離を取り、その学業が進むことを神に祈っていた。成人してからは、昼は農業に従事し、夜は学芸に励み、怠ることがなかった。両親にも常に孝養を尽くしていた。家は貧しく、豆を食い水を飲むだけというほどであったが、なお親を喜ばせた。十六歳で宿場の書役となり、四年つとめた後年寄に転じ、さらには名主と問屋とを兼ねるようになった。宿は貧民が多く、風俗は怠惰で、宿の運営に役立てることができなかった。又七はむだ使いを省き、会計を謹み、宿の運営はようやく落ち着き始めた。さらに又七は宿の人々に、倹約を守り勤労に励むよう勧めた。宿は海に面し、海苔を産していた。土地の者たちは初めこのことを知らなかった。信州のある商人が海苔を売ることを業としていたが、たまたま又七の家に宿を借りた。そして「この地は海苔を生ずるので、採ったら大いに利を得るだろう」と言った。又七はそこで商人を訪問して、海苔を採って製造する方法を教わり、これを土地の者に教えて製造させ、四方に売り出した。宿一帯がその利を被った。又七はつねに至誠をもってことに処し、村里を困らせる悪少年がいると、又七はすぐに彼を呼び寄せ、繰り返し教え諭した。すると彼らは感悟して恥じ入り、ついに善人となった。しばらくして宿中の旧弊が次第に変化し始め、どの家も裕福で満ち足りるようになった。文政七年、官庁がこれを賞して白金五錠を賜った。同九年、代々家が那須田氏を称することを許され、さらに舞阪宿の長、駿・遠・三の十六宿の取締役兼務となり、年に路費金若干を給された。のちには宿の人々を率いて、道路や橋を修復し、また私財を投じて凶作の村を救い、そのたびに褒賞を賜った。これによってその篤行が盛んに言い囃されるようになった。天保十四年、官庁から両刀を佩くことを許された。又七は上下どの人からも称揚されるようになったが、人となりは謙虚であり、刀は公事でなければ佩かず、平常のときは刀を袱紗に包んで携えていた。そこで人は彼を「袱紗刀の旦那」と呼んだ。嘉永三年七月十日、病没した。享年六十六歳であった。彼は病床にあっても、一日たりとも書類に書き記すのをやめなかったが、病気が重くなると、丁寧に宿の運営の要点を人に教えた。宿内の養泉寺に葬られた。宿の人々は又七の徳義に感じて、話し合った末、碑を宿の西の原に建てて、永遠に伝わるようにしようと考えた。そこでその記録を持ってきて、わたくしに文を乞うた。宿はわたくしの管轄下にあるから、彼の徳行を顕彰するのは、もとより代官の職務である。そのため記録に従ってこの文を書き、碑の銘とした。称えていう。勤倹して自ら律し、一郷を感化した。害を除き利を興し、吏としての才で名を揚げた。老いも若きも奮励し、終始彼に助力した。その光り輝く業績は、自身では隠そうとしているが、それゆえにますます光を放つのである。あぁ、人たる者は、けっしてこのような心を忘れるべきではない。

杉山翁立志の碑
あぁ、男と生まれたからには、名を成すことができず、つまらぬ者として世を終わったならば、どの面下げて地下で杉山翁に相見えることができようか。翁は遠州浜松の人である。十歳で失明したが、幼い頃から群を抜いて剛毅で、天下に名を残さんとする志を持っていた。しかし失明してしまった以上、できそうなことがほとんどないので、医術を学ぼうと決意した。十七歳で、相州江の島の弁財天女の社に詣で、断食して祈ったところ、二十一日目に、神に針を授かる夢を見た。夢から覚めると、針を手に握っていた。そこで針医となり、江戸に赴いた。日夜研鑽に精を出し、その技術は年ごとに向上し、ついに奥義を極め、その名は大いに揚がり、四方から治療を乞う者が次々と集まってきた。さらに諸大名や貴人からも招かれ、空いている日がないほどであった。徳川綱吉公がこれを聞い て、召し出してそばに侍らせ、ある日「何か欲しいものはあるか」と問われた。すると翁は答えて「ございます。ひとつの目が欲しく存じます」と言った。そば の者は大いに笑ったが、綱吉公は「これは冗談であろうが、その心は実に憐れむべきだ」と申された。そこで翁は本所一の橋のそばに一町四方の宅地を賜った。俗にこの橋を一つ目というのは、これによるものだという。さらに五百石を賜り、検校 けんぎょう(盲人の官位で最高のもの)に任じられ、京都にも地を賜って清聚菴 せいじゅあんを置き、天下の盲人のことを総括する役となった。翁は賜った土地に弁財天の祠を建て、加護の恩に報いた。また平生、観音菩薩を信仰しており、人を救済することを好んだ。初め貧しかったときも、なお荷物を傾けて貧しい者を救い、やがて家が豊かになってからは、救済した家が極めて多かった。さらに盲人の窮乏した者は、もっとも手厚くした。わたくしは遠州の代官となり、五年滞在して、つねにその風俗が怠惰で軽薄なのを憂えていた。そしてなんとか教え導き、激励しようと考えていたが、まだそれができていない。最近、三熊思孝(江戸後期の文筆家)の著した『続畸人伝』を読み、翁のことを思って、思わずため息をついてしまった。そこでその事績を略記し、石に刻んで、わたくしの管轄下にある見附の宿に建てて、遠州の人々に示すものである。あぁ、翁は遠州の人ではないか。一盲人でありながら一芸を極め、これほどのことを成し遂げたのである。いま、遠州は何十里の広さで、両眼の見える者が何万人といるのに、なぜこのようなことを成そうとしないのであろうか。ただひたすら時流ばかり追っているのを心に恥じないのであろうか。もし少しでも恥じるならば、きっと奮励努力して翁の遺風を継承しようとするはずである。これが、わたくしが遠州の人々に対して切望することである。

東原翁墓碑の銘
浜松藩の儒者、名倉信敦が、家譜を持ってきて、その父東原翁の墓碑銘を記 すよう頼んできた。わたくしは翁と面識がなかったが、信敦とは学芸のことで交わりを久しく結んでいたので、銘を記すのを辞退することができず、家譜に従ってこれを記した。翁の名は信芳、字は至極、通称は仁兵衛、東原はその号である。遠州奥山の人で、名倉氏である。故あって一時期野田と改め、のちに名倉に復した。始祖は主膳といい、城主奥山朝藤 ともふじ の家老であった。延元年間、朝藤に従って宗良親王を奉り、勤王に奉仕した。奥山氏が駿河の今川氏に滅ぼされると、主膳は朝藤の三男源太郎とともに奥山に逃れ、のちに田草神社の神主となり、子孫は代々その職を継いだ。七代の子孫新右衛門は、旗本近藤なにがしに仕えて用人となった。子は二人おり、長男の重五郎は家職を継いだ。次男が東原翁である。翁は初め浜松藩主井上氏の臣、塩谷なにがしの奉公人となったが、のちに藩主に仕え足軽となった。しばらくして駒方下役に転じ、徒目付を経て、勘定格に任ぜられ、納戸奉行兼務となった。さらに中小姓に昇進して、数寄屋頭兼務となり、 代々俸禄十人扶持を賜った。特別の厚遇といえよう。嘉永二年隠居し、安政四年八月二十四日死去した。享年八十五歳。浜松の齢松寺に葬られた。戒名を秋月という。翁は若い頃武術を好み、拳法も剣術も奥義を極めた。そしてその傍ら、和歌・茶道・華道などにも巧みで、常に倹約につとめむだを省いたので、けちではないかと思う者もあった。藩主は棚倉・館林と移り、浜松に復した。移封に従った藩士は、皆路費に困り、御用商人から借金をする者が多かった。しかし翁はわずかなところも自らまかない、まったく苦しむところがなかった。けちだと思っていた者は皆感心した。翁はある家から妻を迎え、子を二人儲けた。一人は信敦で、もう一人は関次といったが夭折した。翁は早くから学に志していたが、激職で自ら学ぶ暇がなく、信敦にその志を完成させた。翁の学は翁には成せなかったが、信敦は成すことができた。これは死すれども死せずというべきであろう。称えていう。倹約につとめて家を興し、技に巧みで徳も高かった。学に篤い子がいて、父の志を継いで力を尽くした。翁は世を去っても、永久に国に報いるのである。その立派な墓には木が鬱蒼と茂り、水の音と山の色が美しい。

長野豊山先生の墓標
先生の実名は確、字は孟確。豊山はその号である。長野氏で、積芳君、実名は祐清の長男である。母は平田氏。天明三年七月二十八日に、伊予国川江に生まれた。天保八年八月二十二日、江戸で死去した。享年五十五歳。平田氏を娶り、子を二人儲けた。一人は瑋といい、家を継いだ。もう一人は卓といったが、夭折した。先生は学問を積んで文名を揚げ、天下に名が轟いていた。その性は剛毅で、人に媚びなかった。しかし志を得ずして没した。あぁ、まことに悲しいことである。長男の瑋は門弟と謀って、八月二十四日に、江戸二本榎広岳禅院に葬り、石の墓標を立てて、後世の人々に告げるものとした。

娘・しつ の墓誌の銘
わたくしは遠州に赴任して、二人の娘を儲けた。そして、彼女らが成長して嫁いでから、その家が仲睦まじくなることを願って、琴・瑟と名付けた(「琴瑟相和す」から)。のちに娘たちを江戸へ連れ帰った。瑟は聡明で、よく親や兄に仕え、もっとも姉の琴と仲が良かった。五歳のときに詩を多く朗誦していたが、急に病にかかり、ついに世を去った。時に文久元年七月三日であった。彼女のために涙を流さぬ者はなかったが、琴はもっとも悲しげに泣いた。わたくしはこの「瑟」の絃が、まだいっぱいに張られない先に断たれてしまったのを悲しむのである。そしていう。この瑟の材は、いとも堅固であった。しかし絃をまだいっぱいに張られていないのに、断ち切れてしまった。あぁ、悲しいことよ。松と柏が墓を囲み、そのそよぐ音は瑟のように悲しい。父はわたくし林長孺、母は中井氏である。江戸溜池澄泉寺内に、先祖の墓に付属させて葬った。法名を善照院覚道妙玄という。

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