『鶴梁文鈔』巻7 訳

韓愈の画像について
ある人物が所蔵する、華山人(渡辺崋山)が描いた韓愈の画像は、実に生き生きとした表情のものであった。わたくしは以前、これを借りて見てその見事さに感嘆し、購入しようとした。その人は大事にするあまり承知しなかった。ある人が、自分が相談してみたらうんと言うだろう、と言った。しかしわたくしは、持ち主が宝とするのは絵であり、わたくしが宝とするのは無欲な心である、いま強いて画像を取り上げたら、互いに自分たちの宝を失うことになる、と答えた。そこで部下の柳蹊に命じて、一幅の絵を模写させ、所蔵している。韓愈が趙侍御に絵を返した(趙侍御は韓愈の知人。韓愈が友人から絵を貰い受けたが、趙侍御がなくしていた愛画であったと知り返したという)故事にならったのである。

遠州の代官所について
わたくしは代官所にあって六年になるが、その政治はあまりに拙く笑うべき ものであった。しかし民を愛する心だけは、いまだかつて忘れたことはない。わ たくしが去った後に、覚えている人がいるであろうか。
同右
庭の竹と桐とは、親友のような長い付き合いであった。いままさにこれを捨てて行こうとし、惜別の情に耐えず、一語を壁に書き留めた。時に細かい雨が煙るように降り、梢から滴る雫は涙のようであった。安政五年五月二十八日のことである。

ある人の書画帖の冒頭に題する
ある人がわたくしに、その書画帖の冒頭に題(ここでは巻頭に書く短い文章)を書くよう頼んできた。そこで開いてみると、まったくの白紙で、一人として筆を下したものはおらず、まるで混沌世界のようであった。そこでわたくしはこう思った。帖に題と跋とがあるのは、ちょうど世界に天地があるようなことである。そもそも混沌が初めて開けて、まず天があってのちに地があり、万物がある。いま帖の冒頭に題するのは、まず天が生じるというところであろう。こののちには、山岳や川や海、人や獣や草木などなど、さまざまな形のものが、次々と生まれ出てくるに違いない。そうとなれば、天地開闢の功労者は、わたくしに他ならないのではないか。そんなことを考えて、笑いながらこれを書いた。

今切江図について
今切の渡しは、天下に名だたる名勝である。わたくしは遠州の代官を六年勤めたが、その任地を巡察するたびにこの渡しを通り、その景色の見事さに感嘆した。いままさに江戸に帰ろうとして、名残惜しさに耐えず、思わずため息をつきながら「どうか力持ちにこの景色を背負わせて持ち帰れないだろうか」と言った。周囲はわたくしの発想のばかばかしさを笑った。けっきょく、ひとつの絵を描き上げて袋に入れ、帰り支度をした。これは宝物の代わりに大石をひとつ持ち帰った呉の陸績の清廉さにならったのではない。戊午の年五月、鶴梁老吏が記す。

花瓶について
わたくしはかつて石川丈山翁の遺跡を三州泉村に訪ねた。小さな竹藪があったが、おそらく彼が読書したところであろう。そこで竹を一本切り、花瓶を作った。野花を数本差すと、空洞になったまっすぐな花瓶の形に、風流でみやびやかな趣があり、丈山翁の人となりを思い出すに十分であった。戊午の年二月、鶴梁老人が記す。

石巻山の記
三河で変わった山は、ただ石巻山があるのみである。その様子は、中腹から上は岩が露出して土が付いておらず、数千尋も際立っている。おそらく造物者がひとつの奇妙な石を収拾して、その技巧を誇示しているのであろうか。ある年のある月日に、わたくしは高山のそばを通り過ぎた。ちょうどこの石巻山の下にある村であった。時に天は薄曇って、雲が山の四方に見え隠れし、さらにいっそうの不思議な景観を加えていた。わたくしは思わずその場に佇立して、しばらく去ることができなかった。

松崎慊堂 こうどう 刊行の陶淵明集の巻頭に題する
超越して闊達であり、天命を楽しむ人物といえば、中国においては陶淵明、わが国においては松崎慊堂先生(江戸後期の儒学者。渡辺崋山を弁護した人物)がそれであると、わたくしは思う。みな一代の高潔の士である。以前先生は陶淵明集を刊行し、その一冊をわたくしに贈ってくださった。いまを去ること二十年ほどであった。公務の合間に、しばしばこれを読むと、淵明の世俗から超越した様子と、先生の清らかで闊達な風格とが目に浮かんできて、あたかも二人の高士と同席して語り合っているかのようである。そこでわたくしは嘆息する。わたくしはもう老いたが、まだわずかな俸禄のために人に頭を下げざるをえない。そうして二人の高士を友とするのは、厚かましくはないか。そんなことを考えてむなしくなってしまう。安政戊午の年、正月二十三日、遠州中泉の代官所にて。鶴梁老吏、時に年五十三。

僧白隠の達磨図について
僧白隠が描いた達磨は、ただ濃い墨だけで、一気呵成に描き上げている。それは子供の遊びのようで、一見すると下手な絵のようである。しかしよくよく見ると、魂が入っている様子で、表情は動き出さんばかりである。おそらく白隠が禅において到達した悟りの奥深さは、絵においても同様に奥深いのであろう。

希大の書に記す跋文
尾藤希大(漢学者と思われるが未詳)がかつてわたくしに、書は学ぶ必要はない、学んだ者はかえってすぐれた作品を生めない、と語ったことがあった。わたくしははじめ書を学ばなかった。このときは、希大がいい加減なことを言ってわたくしに迎合しているだけだと思っていた。しかしいま、この書を見ると、その筆のひとつひとつが自由奔放で、しぜんと独自の筆法をもっていた。思うに希大の書は、その天性から生まれたのであろう。そこで先に言ったような論を述べたのである。してみれば、これは俗書家の悟り得ることではないのである。

舟の道について
天龍川の流れは、上流が最も急である。わたくしは以前舟人に、船明村から横山村に行くよう命じたことがあった。このとき雨の後で水かさが増し、流れはますます急であった。舟人は棹を取って、力のかぎり漕いだが、一寸進むと一尺戻るという様子で、ついに目的地に到着できなかった。蘇東坡が、書を学ぶのは急流を遡るようなことで、気力を用い尽くしてしまえば前のところを離れなくなる、と言っている。わたくしははじめその言葉を本当だと思っていた。しかしいまこの川を遡るとなると、前の場所を離れられないだけでなく、前の場所からさらに後ろに下がってしまう。とはいえこの両側の絶壁は、言葉に表せないほどの見事な景色であった。そこで同じところを進んだり下がったりするうちに、思うままに景色を眺めることができた。これもまた急流のおかげである。

華山人の絵について
華山人は絵をよくし、また軍事にも関心をもっていた。かつて外国の襲来を憂え、それを防ぐための諸策を考え尽くし、人に会うたびにこれについて激論しないことがなかった。ついにこれによって忌諱に触れ、罪を得て非業の死を遂げた。いま彼の絵を見ると、その山の壮大さと水の流れの激しさを描くとき、筆の勢いはまことに鋭く、彼の心中がよく表れていて、その人となりが思われる。これもまた一幅の華山人の肖像といえる。

航湖紀勝の冒頭に記す
夜更けて退屈になったので、わたくしは酒を飲もうとしたが肴がなかった。ちょうどそのとき、藤森淳風がこの航湖紀勝の一冊を贈ってきた。急ぎこれを開いてみると、その文は美しく伸びやかで、自らその地に遊び、素晴らしい山や川の景色を見ているかのような思いになった。佳文というべきである。そこで思わず大杯でたちまち十数杯も飲みつくしてしまい、言葉では表せない心地よさであった。そしてこの文を書いて返した。

項羽紀を読む
わたくしは若いころ男伊達を好んだ。のち心に感じることがあって、主義を変えて道を学ぶと、古の豪傑で大業を成し遂げた者は、その計画がすでに幼い頃に定まっていたことがわかった。わたくしが過ちを改めたのが二十四歳であるというのは、あまりに遅かったのではないか。項羽紀を読んでみると、項羽がことを起こしたのはやはり二十四歳であった。彼は諸侯となるような素質や、巨万の富があるわけではないが、いったん村里から立ち上がって、諸侯を率い、暴虐な秦を滅ぼし、龍虎のごとき勢いで天下を駆け巡った。その志は成らなかったとはいえ、なんと勇壮なことか。あぁ、大丈夫たるものはまことにこのようでありたいものである。そして項羽が死んだのは三十一歳、わたくしも今年で三十一歳、偶然にも項羽が死んだ時と同じ歳である。あぁ、わたくしは項羽がことを起こした歳にことを起こせず、項羽が死んだ歳に名を上げられず、いたずらに書物の中に埋もれている。なんと才不才の違いが大きいことか。しかしながらわたくしはこうも思う。もし項羽がわが国に生まれて、この泰平の世に会ったとすれば、彼ほどの武力をもってしても、あのような赫々たる功績を挙げることはけっしてできなかったであろう。わたくしはただひたすら学問に打ち込むのみである。そうすれば必ずしも無能のままでは終わらないであろう。天保丙申の年、正月十日。

故松代侯の書簡集の跋文
故松代侯(真田幸貫)の、自身を常に反省し、民を憂え国家を思う心は、すでに書物に記されていることであり、侯についての議論も賞賛も、わたくしご ときがいまさら云々する必要はあるまい。わたくしは不肖の身ではあるが、長い間交際させていただき、しばしば左右に侍して、そのお言葉に触れ、また書簡をも賜ったのは、わたくしにとって大きな幸福であった。残念なことに、侯は壬子の年に亡くなられ、それ以来六年、侯を思い出すたびに、寂しさに心を痛めずにはいられなかった。侯に賜った書簡は、前後百余通、往々人に奪い去られ、甲寅地震(安政元年の大地震)もあってほとんど散逸してしまった。いま残っているのは、わずか三十五通のみである。これらはごく短い書簡ではあるが、筆をとって思いを凝らすときに込めた誠意が、行間に表れており、侯の徳業をわずかながらうかがい知ることができよう。かつ文辞は懇切で真摯であり、わたくしに対する待遇の厚さを見ることができよう。また封じられた書簡が四十三枚あって、どれも相手の姓名が詳しく書かれていた。これらはわずか十数字の手紙を集めただけのものだが、やはり侯の手蹟が残っているのであり、捨てるに忍びない。それゆえこれらを合わせて表装し、一巻として、子孫に残そうと思うのである。

華山人の百花画巻について
芍薬は紅であり、牡丹は紫である。春の景色の艶やかさは観賞するに十分である。菊花は黄であり、木犀は白である。秋の景色の美しさもまた観賞するに十分である。しかしながら、春と秋の景色を同時に観賞することは、造化の巧をもってしても不可能であろう。いま華山人は、水仙を紫藤の下に描き、クチナシを白梅の間に描き、その他四季の花々を、余すところなく写生している。これはまさに春と秋の景色を同時に表しているのである。さらにその絵はまことにみごとで、ひとつひとつが真に迫り、いまにも芳香を発せんばかりである。これは活きた花と言ってよく、下手な画家の死んだ花とは比べるべくもない。してみると、華山人の絵は、天の巧を奪っているというべきであろう。わたくしは生来花を愛する。しかし代官所は仮住まいであり、多く植えることはできない。いまこの画集を得て書斎の友とするのは、ひとつの楽しみである。

円右衛門像の賛
手足を傷だらけにして、山や谷を切り開き、道を作りあげて、二十年で志を達成させた。馬方や駕籠かきたちも、彼を褒め称えて歌っている。いま彼の像を見ると、顔は魃(旱魃を引き起こす鬼神)のごとく醜怪である。しかし顔は魃のようであるが、心は菩薩のようである。
長田 おさだ円右衛門は江戸後期の農民。甲府と猪狩村間の新道を完成させた)

新作の三遠州地図について
わたくしは三州・遠州の代官となり、巡察するたびに将軍家の先祖の旧跡を過ぎ、その合戦につぐ合戦の労苦を思わずにはいられなかった。当時は室町の末期で、群雄が割拠し、天下は大きに乱れていた。芳樹公(松平親氏。松平家の開祖)はこれを嘆き、天下を平定する志があった。そこで松平に基礎を定めた。それ以来、代々英主が興り、人民は日々に増え、土地も日々に開かれた。松平から始まり、寺津・安祥・岡崎・浜松と次第に繁栄して、ついに幕府を開き、千万年も不滅の偉業を成し遂げた。これは東照公の英明さと仁徳の致すところであるが、その代々の先祖が苦戦したことがそうさせたのでもあろう。してみれば、今日王侯から士民に至るまで、泰平の世に生を受けて、治世の恩沢に浴している人々は、その由来を思うべきではないか。それゆえ三遠図志があるが、往々錯誤があり、その実を得られない。いまわたくしは自らその地を踏み、その地形を計り、その方位を正し、その旧記をよく読み、その古跡を考察し、古老たちを訪ね、口碑を探し、三遠地図一幅を新作した。原稿を十二回も変え、五十ヶ月もかかって、ようやく完成した。そして、ひそかに少しの誤差もないであろうと自負している。心ある人が、この図を参考にすれば、三遠二州の地形を正しく知るのみならず、歴代の先祖の、当時の支配・攻守のさまを知ることもできよう。そもそも泰平の世となって久しく、人は兵革を知らない。最近外国が講和を乞うてきているが、一見親善を結ぼうとしているようでも、のちには外国人がどのような様子を見せるかわからない。そうとなれば、防禦し戦に備えることも、あらかじめ考えておかねばならない。もし高官たちがこの図を常に見て、代々の将軍家の先祖が、苦難に耐えて懸命に戦い、幕府の基を築きあげた、その艱苦に思いを馳せたならば、その怠け心を戒め、その義気を奮い立たせるに十分であろう。してみればわずか一幅の地図も、国家において軍事を講じ治世を助ける具となるのであり、けっしてなんの役にも立たないものではないはずである。安政五年戊午、二月二十三日。中泉代官所の南軒で起草する。

曾鞏 そうきょう の文集に記す跋文
質朴な内容を、正確な理で断じ、純粋の気を、円熟して流暢な筆で述べ、練りに練った句を、きっちりとした論法で整え、やわらかいがいい加減ではなく、緩やかだがだらだらとしてはいない、というのが曾鞏の文章である。そもそも、これらの文章を見るに、韓愈の謹厳、三蘇(蘇洵・蘇軾・ 蘇轍の三人)の自由奔放とも、柳宗元の清らかで繊細な調子、王安石の複雑に変化する調子とも、決然とした違いがある。しかしなよやかで変化が多く、ゆった りとして急いた様子がないのは、欧陽脩によく似ている。そしてその内容は純朴で、気は純粋、句は練りに練られている、というのはまさに曾鞏の独壇場である。けだし八家文の中に他と異なるひとつの流派を開いているといえよう。すぐれた学者たちが褒めたたえるのももっともである。論者の中には、その文章が散漫であるのを批判するものもいるが、これは素人が議論すべき事柄ではない。してみれば論者の言といえども、まったく理にかなっていなければ、不適正と言うべきではあるまいか。

王安石の文集に記す跋文
王安石の惨烈で情け容赦のない人となりは、韓非に似ている。その変化に富んだ文章もまた韓非に似ている。しかしながら深く君主を説得することの難しさを知っているのではない。説難の書(『韓非子』の一篇)を表してそのことを詳しく述べても、ついに秦朝のような酷薄さから脱却することはできないであろう。世の人はこのことを悲しむのである。安石は変法に固執して、それによって宋朝の繁栄をうながそうとした。ただ法の力にのみ頼るのは天誅が下るべきことで、許されるものではない。幸い当時は刑を免れた。たとえ当時は幸い刑を免れたとしても、千年後に批判されることを免れないのは、やはり天が報復に巧みであったといえよう。とはいえ、その文章の素晴らしさは、孤憤・五蠧・説林・説難(いずれも『韓非子』の一篇)と並んで後世に伝えられるべきものであろう。

蘇轍の文集に記す跋文
筆を自由自在にふるい、変化に富んだ文章を書き上げるのは、蘇氏の家に伝わる手法である。蘇轍はその血脈を受け継いでいるために、その文章の構成は、もとより典型的なものである。しかしながら、そのある種の気が大きくこだわりのないふんいき、含蓄があり露骨でないところ、平明だが変化のある文辞で詳しく丁寧に述べ、議論が行き届いているところは、父蘇洵や兄蘇軾よりも優れているように見える。蘇軾が、深みがあり穏やかで、すっきりと美しく情味にあふれ、生き生きとした気が常に表れている、と言っているのは、蘇轍の文章のことであろう。世俗はそのことを知らず、ある人は「黄楼の賦」は蘇軾が代作したものと言い、「韓大尉にたてまつる書」は蘇洵が代作したものであると言うのである。あぁ、これらの文はもとより蘇轍の父や兄と同様の風格があり素晴らしい。その素晴らしさは父や兄と同様の風格から来ているが、父や兄の習慣から脱却し得ているのは、蘇轍の蘇轍たるゆえんである。

竹の墨絵の横に書きおく
戊申の年、竹酔の日(五月十三日)に、文章家の仲間たちがわたくしの家に集まった。酒宴半ばで、秋暉(岡本秋暉、幕末期に活躍した画家)が竹の墨絵をいくつか描き、宴席の客たちがおのおのそれを題に詩を作った。酔って書けない者と、会に参加しなかった者とは、別の日に絵の余白に後から詩を書いた。いまこれらを見るに、筆づかいは自由奔放で世俗を超越した感があり、酔って書いたことは問わずとも明らかであった。なんとも素晴らしいものである。竹酔の日を去り、十七日、鶴梁老人が晩酌して酔ううちに漫然と記す。このとき窓の外の竹が風で激しく揺れ、酔っているように見えた。竹もまた長く二日酔いに苦しんでいるのであろうか。そう思って一笑した。

僧玄常のために書画帖の巻頭に記す
わずかな欠点をほじくり返し、容赦なく責めるのは、見て楽しんではいるものの、閻魔同様に酷薄である。その優れたところを精しく見て、余すところなく見尽くすのは、菩薩のような優しさで観賞するものである。わたくしは菩薩でありたいが、閻魔ではありたくない。丁巳の年二月仏滅の日、鶴梁老人が記す。

「十日録」跋文
人は不思議な形の石を見、静かな泉の音を聞いて楽しむ。そのため泉や石のことで胸がいっぱいになり、恋い焦がれて捨てがたくなるのである。わたくしは長いこと公文書の整理に苦しむ日々を送っていた。そして昨日幸いにして職を辞し、泉や石と共に心静かに一生を終わるつもりであった。しかし今再び学問所の学頭に就任し、一日で泉や石を捨てて去ることになった。まことに残念である。つまり、わたくしにとって泉や石は、朝な夕な眺めてはこれを愛で、単に友達同様の親しみを持つだけではない。奇怪な形は視覚に訴え、静かな音は聴覚に訴え、これらの感覚と精神とが相応じて、いくつかの詩ができる。これは泉や石のおかげなのである。いま試みにそれらの詩を口ずさんで、かつての楽しみを思い出すと、石の形や泉の音が、耳に聞こえ目に浮かぶようで、旧友とひとつの部屋で手を握り膝を接しているかのような感があり、少なからずわたくしの心を癒してくれるものがある。それにしても不思議なのは、石のごつごつした形を泉には見ることができず、泉の清らかな音を石には聞くことができないのに、山谷の間には、つねにそれらが同居しており、恋い慕って去りがたいかのように見えるのはなぜかということである。わたくしはさらに詩一首を作り、多くの奇怪な石や、清らかな泉をうたおうと思う。

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