『鶴梁文鈔』巻九 訳


米沢の地は、山間の片田舎にある。そして川や海のような水路の利便がない。その国力が衰えれば、人民は飢え疲れるであろう。しかし反対に富み栄えれば、東国でも傑出した力を示す。なぜならばその歴代の先祖の政治が、礼を尊び俗を正し、倹約に勤めて下に模範を示し、子孫は代々これを絶えず受け継いできたからである。そもそも礼が行われれば人は分を守り、俗が正されれば民はデタラメな行動をしない。倹約に勤めて下に模範を示せば、国の蓄えに余裕が出る。そのためこのように行うのである。しかし世俗から見れば、このようなことは遠回りに見え、じつは最も近い道であることを知らないのである。国を治める者がこのことを知れば、功をあげることができよう。それはけっして単に米沢のみではないのである。そこで米沢紀行を作る。己未の年九月、鶴梁老吏が羽州柴橋代官所の執務室で記す。

米沢紀行
会津城の東一里あまりのところに、檜原という大きな山がある。奥州と羽州の国境であり、会津と米沢の境でもある。安政六年秋八月、わたくしは羽州村山郡の年貢米を見聞すべく、会津方面に向かった。九月二日、檜原を越えると、米沢藩士二人が宿役人二人とともに出迎えて、道端に控えているのが見えた。彼らは丁重にあいさつしたが、その様子は純朴で、いまの世の人とは違うように思えた。やがて村役人が箒を持って先導した。ここでわたくしは、米沢の領内に入ったことを問わずして知った。このとき雨が激しく降り、ぬかるんで滑りやすくなっており、さらに坂道も峻険であったため、駕籠かきは特に苦労した。山を数百歩降りたところで、ようやく雨が止み、雲もようやく散り、山を降りきったところで空が晴れた。折り重なった峰々は、雨に洗われて青さを増し、谷の流れは水が増して、勢いよく流れ出しては石にぶつかる。その清らかで堂々とした景色は、あたかも米芾の山水画が書き上げられて、まだ墨が乾いていない状態にあるようで、素晴らしい場所というべきである。わたくしは米沢のすぐれた政治を聞いたことがあったが、このような素晴らしい景色の場所があることを聞いたことがなかった。百聞は一見にしかず、とはよく言ったものである。
山下は綱木宿である。代官大峡方四郎が、外出服に草鞋で、宿の外まで出迎えた。関所があり、関所役人三人があいさつに出てきた。関所を過ぎ、宿役人中川某の家で食事をした。方四郎が再び礼服に着替えて会いに来た。食事が終わって出発し、奈良・松野の二山を越えて、夜に米沢に到着した。
米沢は街なみが十文字に交差し、一里四方ほどの広さで、市場は繁盛し、品物が市に満ち、その民は耕作や機織りに精を出している。土地は漆を育てるにも、桑を育てるにも、麻を育てるにもよく、産物に溢れている。ゆえに四方の商人が大勢やってくるのである。米沢藩士の記録である『米府鹿子』には、家は二千八十六軒で、ひとつの都会のようであり、風俗は皆質実純朴である、とあった。わたくしはたまたまそこの豪商の家の女性を見たが、皆木綿の服を着ており、その家屋や蔵の壁の飾りもまた、いたって質素であった。おそらく鷹山公の善政がなお残っていて、その子孫が祖法をよく継承しているのであろう。
わたくしが初めて町に入ると、町奉行の江口縫殿 ぬい 右衛門が、乗物のそばまで出迎えた。旅館に入ると、使者桜井市兵衛が、藩主の意向を丁寧に伝え、絹綿二包を送った。皆礼服で、丁重に振舞っている。やがて給仕の者がいくつかの立派なご馳走を進めてきた。これも藩主の意向で、幕府の命を重んじるために、公人は皆このように礼遇するのであり、わたくしだけそうするのではないのであろう。
三日、朝から雨であった。米沢を発って二里行くと、松河という川がある。土地の者の話によると、七月二十五日に暴風雨となり、水かさが増して田畑を荒らし、小屋を押し流すという。路上眺めると、左右数里の稲田が水害に遭っていた。おそらく一万石あまり失ったのであろう。民の悲しみが思われる。
また二十町あまり行くと、大橋という橋がある。このとき空は晴れかかっており、遠くに飯豊・朝日・戸狩・野川・吾妻の山々が見えた。もやがかかって、道行く人を映している。山下には何千もの美田があり、草木が茂っている。これを見ても民力がよく充実していることがわかる。
また一里行くと、赤湯というところがある。茶屋で休むと、給仕の者がやはり藩主の命を受けて、ご馳走を進めた。代官氏家十橘が、礼服で挨拶にきた。これより前、赤湯に着いたときに、十橘は外出服で道端に出迎えた。そして再びやってきて、遠くまで送ろうとしたが、わたくしは強いてこれを止めた。
わたくしが赤湯に来ると、男女が大勢集まって見に来ていた。中に上等な服を着た者が何人かいた。これを土地の者に問うと、この地に温泉があり、他国の人が多く入りに来るという。上等な服を着た者は皆他国人であり、赤湯の人ではないようである。
川樋、小岩沢という土地もあった。このあたりの民の気風はもっとも質朴である。名主が送り迎えし、皆礼服で、ひたすら謹厳であった。
中山という土地は、米沢の北の境である。関所があり、関所役人が三人挨拶に出てきた。関を越えて数百歩進むと、道の右に中山石という巨石があった。米沢と上山の境である。はじめ米沢藩士二人が、檜原の山から先導してきたが、名主が迎えに出てくると、皆あいさつして去った。しばらくしてまた一人の役人が立っているのが見えた。見ると氏家十橘であった。わたくしは乗物の戸を開けて、丁寧に礼を言って別れた。
南境から北境まで、道程は十二里であった。その間、田野が開け、桑や麻が茂り、宿場や村里の住民は皆うるおっていて、ひとつの廃屋も見えなかった。諸国の宿駅は、娼妓を蓄えて、それらによって旅人から銭を集めることが多い。米沢領内は千里四方に及ぶが、ひとつも遊女屋がない。そのために農事を怠るものがなく富み栄えるのである。領内は合わせて十万人で、蓄えている米は四、五十万になるという。
米沢では水力でつく臼を使うことを禁じている。わたくしがそのわけを問う たところ、水力で臼をつくと、しぜんと水気が生じて米が精白される。しかし飯を炊くときに増えない。さらに人の操作をも怠らせるのだという。米沢の政策は、皆このように理にかなっていて精密なのである。
米沢の四方は山岳で、じつに天険である。しかし川や海での運送の便、魚や塩による利潤がないのが残念である。それでも、君臣が相和して善政を行い、国を富ませ強くすれば、海を持つ国以上の利を得るのである。
わたくしは昨年米沢を過ぎて、その藩政の美を見た。今年またこの旅で、さらに見聞することができた。ただし二年の旅は、いずれも公務に関わることであり、あまりに忙しくて、長くとどまって詳しく記録することができなかったのである。

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