高校教員では大学とのコネクション作りが一番難しい 論文博士を取得するまでの話

師匠の個人的な話をしているので公開すべきかどうか悩みましたが、個人が特定できないように配慮して一部フィクションを含める形で公開します。

振り返ってみて論文博士取得で一番難しいのが、博士号を出してくれる大学と指導教官を探すことでした。

この後説明をしやすくするために、私が師匠に指導を受けた大学を今後H大学と書くことにします。

師匠は私のことを買っていてくれたようで、私以上に私の博士号取得に執念を燃やしていました。しかし私の師匠は、私が修士課程を修了した3年後にH大学を退官していたため指導教官にはなれません。そこで師匠は受理された論文が複数できた段階で、H大学の知り合いの教授に話を持ち掛け、私がセミナーで発表する機会をつくってもらいました。師匠はその教授に指導教官になってもらうことを画策していたようです。私も師匠もH大学がある都市に住んでいるため、それも都合の良いところでした。発表は無事にできましたが、その教授の分野が違うということで指導教官の話は不調に終わります。(セミナー発表の後に師匠とコーヒーを飲みながら昔話に花を咲かせたこともいずれ回顧したいなと思っています。)ちなみにこの段階で研究を再開してから3年以上経過しています。

師匠と研究を進めながら、博士号取得の道筋をどうしたらよいかと困っていた矢先のことです。兄弟子から、「師匠が遠方で開催されていたセミナーに参加していたが、滞在先で急逝した」という連絡が入りました。コーヒーを飲んだ日から一カ月ぐらいしか経っていません。体にはがたが来ているけど、急に亡くなるような雰囲気でもなく、むしろ年齢の割には元気な方だと思っていました。兄弟子からのメールが唯一の連絡で、葬儀に参列したわけでもないので、実感が全く沸かなかったこともはっきり覚えています。師匠からの最後のメールに返信しなかったことへの後悔はいまだに残っています。

いずれにしても私の博士号取得への後ろ盾を失ったことは事実として残りました。
しかし師匠のおもいを兄弟子の皆さんが受け取って、博士号の話が前進していくことになります。

どこかの記事に続く。

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