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【 説教10 】「心は楽しみ、舌は喜び踊る」

  これは2023.5.28に、子供と大人が参加するペンテコステ礼拝で、私がお話したものです。

【 聖書箇所 】

  五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
  さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。

使徒言行録 2章1-11節

【 説教 】 約17分30秒

  みなさん、ペンテコステおめでとうございます。

  ペンテコステとは、弟子たちに聖霊が与えられた日、また、この日が教会の誕生したときだと言われています。

  今日は御心を深めていく前に、ペンテコステの出来事のいきさつについて、簡単に話してから始めていきたいと思います。

  十字架の贖いを完成し、復活されたイエスさまは、40日の間、弟子たちの前に現れ、御国について話されました。そして、「父から約束されたものを、エルサレムで待ちなさい」と言われ、天に昇って行かれたのです(使徒1:3-11)。

  ペンテコステの出来事は、五旬祭の日に起こりました。

  五旬祭とは、その年に収穫された麦などの初物を神に捧げるお祭りのことです。弟子たちに霊が与えられて初めて示されたしるしは、異言(異国の言葉を話すこと)だったということです(使徒2:1-13)。

  これらによって、3,000人が信じ、洗礼を受けるようになったのです(使徒2:41)。


  私にも、イエスさまを伝えてくれたお友だちがいます。

  そのお友だちと食事をしながら話していると、「キリスト教に改宗したんだ」と言って、今、学んでいることを聞かせてくれました。

  ところで、自分が学んでいることを身につけるために、最もよい方法は、どんな方法か、聞いたことはありますか。

  それは、人に伝える練習をすることです。

  だから、そのお友だちは、「その話をしていいか」と話を始めたのです。そして、「私たちは御霊でつながるんだ」と、いきなり始まりました。

  私は、 “御霊” がわからなかったのです。

  ですから、すぐ「ちょっと待って、“御霊”って何?」と尋ねました。

  けれども、お分かりのように、人はのってるときに話の腰を折られると話しにくいのです。

  だから、その友達は、「御霊は霊、聖霊のこと。聖霊がなければキリスト教じゃないから」と言って、「あとは黙って聞くように」と話を続けられたのです。

  私が初めに知ったことは、「聖霊がすべてなのだ」ということです。

  それから、私は「聖霊とは、何なんだろう」、「どうやったら受けられるのだろう」、「受けたかどうかは、どうやってわかるのだろうか」と、ずっとそのことに思い巡らせているのです。

  今日の聖書箇所では、聖霊の働きを目の当たりにした人々が、「どうして私たちは故郷の言葉を聞くのだろうか」と驚いています。

  故郷の言葉とは、どういう意味なのでしょうか。

  今日は、そのことについて御心を深めていきたいと思います。そして、「どうしたら霊を受けることができるのだろうか」、そのヒントとなるようなお話ができたらなと思います。

  霊を受けた弟子たちには、異言(異国の言葉を話す)という働きで現れました。異国の言葉とは、日本人である私たちにとっては、英語とか、中国語とか、フランス語とかそういった外国の言葉ですね。

  けれども、ペンテコステの日にそれを聞いた人々にとっては、故郷の言葉であったということです。

  これは、どういうことでしょうか。

  たとえば、海外旅行に行ったことある人ならわかりやすいと思います。言葉が通じない場所は少し不安なんですよ。

  そういった経験がない人には、また後で別の話をしますね。

  まず、私はカンボジアに旅行に行ったのです。

  アンコールワットが見たかったのです。

  その時、初めての外国旅行だったので、「何だ、この草は」、「木高いな」、「長いダンゴムシがいる」とか、上とか下ばっかり見て歩いていたものだから、「どっちから来たんだっけ」というのがわからなくなったのです。

  それでマップを見ながら、「たぶん、この遺跡があっちのあれだよな」と調べていたら、現地の人が「オニイサン、コマッテル、ミチマヨッタ?」と声をかけてくれたのです。

  その声を聞くと、「日本語だ」と思って、「日本語を話せるんですね。ここに行きたいのですけれど、あれですか」と一生懸命に聞いたのです。すると、少し悩んで「No!」と言われて、「こっちだ」という風に案内されたのです。

  そこに屋台があって、「アボカド、スキ」と聞かれて、「食べたことないけど、たぶん大丈夫だと思う」といって、「コレ、グァバ、シッテル」と言われて、「知らない」と言うと、「コレモイレチャオウ」と、ミキサーにかけて、「ハイ、drinking」ってドリンクを渡されたのです。それで、「おいしいですね」と言いました。

  すると、「2ドル」と手を出してきました。

  何を伝えたいかというと、異国の地で故郷の言葉を聞くと、ものすごく親しみがわくのです。心がオープンになるのです。

  異国の地に限らず、教会に集まったり、習い事をしていると、いろんな年齢層の人たちがいますよね。知らない人の中だと気まずいのです。

  そのようなとき、似た者同士で集まったりしませんか。

  たとえば、同じくらいの年齢であったり、性別、男の子は男の子で、女の子は女の子で、また子どもは子どもで、大人は大人で、といった具合に、なんとなく集まっていたりしませんか。

  このほかにも、大学生になったりすると出身地で仲良くなったりするのです。

  私は長崎出身なのです。

  大学で、「どこ出身」と尋ねると、「大阪」、「青森」、「山口」などといろいろ返ってきます。その中で、「長崎」と返ってくると、「長崎のどこ」と食いつくのです。

  故郷の言葉というのは、「あなたと私は似ていますね」と親近感を覚える言葉が、私たちの中で働いているということなのです。

  今、お話したのは、言語や年齢、性別、出身地といった、誰が見ても、目に見えてはっきりわかるようなことです。

  けれども、そうではないことでも、私たちは親しみを感じること、まったく知らない人にも共感することがあるのではないでしょうか?

  たとえば、車もそんなに走っていない、そんなに広くない道なのです。その信号が赤になった。みんな渡っているのです。

  けれども、なぜかあなたは止まってしまいませんか。

  「なに止まってるの、この人」みたいに見られて、ちょっと恥ずかしいのです。けれども、そんなときに、あなたの横に信号を守って待つ人がスッと立ったら、どうですか。

  「私もあなたと同じです」と思いませんか。

  これは私が中学1年生の頃のお話です。

  学校や塾などで宿題や課題が出ますよね。私は、それをよく忘れていたのです。

  ほかにも忘れていた子がいました。けれどもその多くの子は、宿題をやってきている人に写させてもらって提出していたのです。

  私は、それがどうしてもできなくて、「自分でもばかだな」、「怒られ損だな」と思いながら、先生に怒られていたのです。

  そのような中で、ほかにも、私のように怒られている子がいたのです。

  その子が、宿題を写している友達から、「こんなの提出すればいいんだよ。お前も写せばいいじゃん」と言われていたのです。

  その子は、「宿題は自分でやることに意味があるんだ。それができないのであれば、僕は怒られる方を選ぶ」と言ったのです。

  それを、「よい子ぶりやがって、怒られるのが好きな変態なんだな、お前は」と言って笑われていました。

  けれども、その子は、「僕も怒られるのは嫌だよ。ただ、宿題をしなければいけないとわかっているけれども、怠け心の方が勝ってできないんだ。でも先生に怒られると、『やらなきゃな』という気持ちがどんどん強くなってくるのがわかるんだ。だから僕は先生に怒られるんだ」と言っていました。

  なぜ、その子がこのようなことを言ったのか。

  それは、担任の先生が、「宿題は、あなたに力をつけさせるためのものです。だから、人の宿題を写さずに、忘れたなら『忘れた』と言いに来い。やる気が出るように何度でも叱ってやるから」と言ったからなのです。

  「そういえば、先生が入学したときに言っていたな」と私も思い出しました。

  そして、「それだ、私も同じです」と思ったのです。

  なぜなら、「闇から光が照り出でよ」と言われた神は、私たちの心の中を照らし、イエス・キリストの御顔にある神の栄光を悟る光を与えてくださったからです。私たちは、この宝を土の器に納めています。

コリントの信徒への手紙 Ⅱ 4章6-7節

  私たちは、神が土をこねて形造った後に、「ふっ」と息を吹きかけて完成した、神の傑作品なのです。

  聖書は「光あれ」から始まります(創世1:1-3)。

  その光とは、何でしょうか?

  「格言、寓話、賢人らの言葉と謎を理解するため(箴言1:6)」と冒頭で記されている箴言の言葉に「戒めは灯、教えは光(6:23)」とあります。

  光とは、教えのことなのです。

  だから、「私たちは、どのような教えに従って生きているのか」、「私たちの中に、どのような言葉を納めているか」によって、イエスさまの声を聞き分けるのです。

  その言葉は、この聖書の中に記されています。

  故郷の言葉というのは、形としては同じ言語ということなのだけれども、その意味は同じ国、御国の教えであるという神のメッセージなのです(詩78:2)。

  この弟子たちが何を語っていたのか、内容は書いてありませんが、福音に関わることであるのは間違いないと思います。

  その言葉を聞いた信心深いユダヤ人たちは、故郷の言葉にも、その福音の内容にも親しみを覚え、共感して、「私たちも、あなたたちと同じです」と、3,000人が洗礼を受けたということなのです。

  では、どうすれば、その教えを受け取ることができるのでしょうか?

  その言葉、その教えが、私たちの中にあることを、どうすれば知ることができるでしょうか?

  たとえ話を語られるイエスさまに、弟子たちは近寄って、「どうして、彼らにはたとえ話を用いられるのですか」と尋ねました。

  すると、イエスさまは、「あなたがたには天の国の秘義を知ることが許されているが、あの人たちには許されていないからだ」と答えられました(マタ13:10-11)。

  イエスさまは、「弟子たちには、秘密を知る資格がある」と言われました。

  さぁ、私たちにはその資格があるでしょうか?

  あなたには資格がありますか?

  その資格がほしいですか?

  「あるんじゃないかなぁ」、「あって欲しいなぁ」と思いませんか。

  ありますよ。

  では、「その資格とは、何なのですか」ということを知らないといけませんよね。

  こういったとき、必ず聖書にはキーワードとなる言葉が隠されているのです。それを探すのです。

  祈り求めるものはすべて、すでに得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。

マルコによる福音書 11章24節

  弟子たちも、「何で私たちは知ることを許されているのだろう」と考えたと思います。

  あなたも今、「その資格が欲しいな」と願っていると思います。

  「そのように求めたときには、既に得られていますよ」と言われているのです。

  「だから、それって何?」と思っているはずです。

  それが答えです。

  弟子たちは、イエスさまに近寄って、何と言いましたか。

  「どうしてたとえ話を語られるのですか」と質問したのです。

  すると、イエスさまが答えを返してくださったということです。

  神に近づくとは、イエスさまに質問するということなのです。

  「んッ(どういうこと)」と思うこともあると思います。

  「私たちは資格が与えられたから質問したのですか。それとも質問したから資格が与えられたのですか」という風に、聖書の中では、『鶏が先か卵が先か』という哲学めいたお話がよく出てきます。

  しかし主は、世の空しい哲学を打ち砕かれます。

  イエスさまは、「よく聞け、しかし、悟ってはならない。よく見よ、しかし、理解してはならない(イザ6:9)」というイザヤ書の言葉を弟子たちに語られるのです。

  私は、「イエスさまが私の神だったのだ」ということに気づいて、この教会で礼拝を捧げるまでに1年くらいの空白の期間があります。

  その間に、私のお友だちが教会を探してくれて、「あなたはキリスト者なのだから礼拝に行きなさい。近くにこの教会があるから、そこに行きなさい」と言われてきたのです。

  私は、お友だちから命令されて教会に来たのです。

  けれども、聖書の言葉に思いを寄せると、「あのお友だちの言葉は、あの命令は、私の主人であるイエスさまの言葉だったな」ということがわかるのです。

  霊のお方は霊によって語られるからです(Ⅱコリ2:10-13)。

  あなたが礼拝に参加するスタートは、どのようでしたか?

  「お父さんお母さんが礼拝に行くから、僕も私も行くのだ」、また「学校の先生から言われて、『そのとおりだな』と思った」から来ている、ほかにも「仲の良い友達が行くから私も一緒に行くのだ」という人もいるかもしれませんね。

  いろんな理由やきっかけがあったと思います。

  主と私たちとの関係は、どのような関係ですか?

  主は、私たちの父であり、教師であり、友ですよね。

  そして私たちの花婿、夫でもあります。

  その言葉に従って礼拝に来たのであれば、「人は父母を離れて妻と結ばれ、二人は一つとなる(エフェ5:31)」、私たちはイエスさまの言葉と一つであると言えませんか。

  だから、私は、「あなたはキリスト者なのだから教会に行きなさい」と言われた言葉が、聖書の言葉に聞こえるのです。

  その中でも、今回は箴言です。

  怠け者よ、蟻のところに行け。その道を見て、知恵を得よ。

箴言 6章6節

  アリは小さな生き物ですが、一丸となって家族のために働きます。

  イエスさまは、そのような小さなものについて、何と言われますか?

  はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。

マタイによる福音書 11章11節

  あなたは、お父さんお母さんの言葉、先生の言葉、友達の言葉、いろんな言葉を受け取って、今も、こうやって礼拝を捧げていると思います。

  そうやって、こつこつと天に富を積んでいるあなたたちの姿を見なさい。そして、あのとき私にかけられたお友だちの言葉が、主人であるイエスの言葉であったことを知りなさい。

  あなたたちの歩んでいる道、教会で礼拝を捧げる子どもたちの姿を見て、知恵を、イエスさまを得なさい。

  今の私には、そのように聞こえるのです。

  あらゆるところでイエスさまが語られていることを知ることができますように。また、その言葉を私たちに与えてくださる子どもたちに伝えることができますように。

  主が私たちの目を開き、しっかりと主の道を歩む足、神の恵みを確かに受け取る腕を与えてくださいますように。

  お祈りをします。


【 お祈り 】

  天の愛するお父さん、あなたの愛ゆえに私たちの心は洗われ、雪のように白くなりました。私たちにそのような思いはありませんでしたが、今、私たちの中にはあなたの思いがありました。

  いつからでしょうか。

  あなたは息をする前から私たちの神、私たちと共にありました。

  あなたの戒めを、私たちの喜びとしてくださること、これまでも、これからも、いつも感謝しています。

  アーメン。

( 参考:Ⅰヨハネ4:10、詩編19章、イザヤ1:18-20、6:9、詩119:17-24、139:16  )

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