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【説教12】「永遠の救いの源」

  私たちの教会では、2023年の夏に『ヨナ書』をテーマにしてイベントを行いました。これはイベント2日目、2023.8.7の早朝礼拝で、私が『ヨナ書』2章について、お話したもの。

【 聖書箇所 】

  主は巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませたので、ヨナは三日三晩その魚の腹の中にいた。  ヨナは魚の腹の中から自らの神である主に祈って、  言った。苦難の中から私が主に呼びかけると / 主は答えてくださった。陰府の底から主に叫ぶと / 私の声を聞いてくださった。

ヨナ書 2章1-3節

【 説教 】 約17分00秒

  『ヨナ書』の2章では、ヨナがお魚の中で祈っていますよね。これには、どういった意味があるのか」、そのことについて御心を深めていきたいと思います。

  私たちは、いろんな人たちとの関係でつながっています。その最も近い関係が、親子や兄弟という家族関係だと思います。

  家族とは、どのようなつながりですか ?

  血縁関係、流れている血でつながっているのですよね。

  では、尋ねます、どこまでが、あなたの家族、どこからがあなたの親戚ですか?

  たとえば、私が中学生のとき、「私は芸能人の親戚なの」と触れ回っているクラスメートがいました。あの国民的美少女、上戸 彩らしいです。

  そんなことを聞いたら、あなたはどのようなことをイメージしますか?

  「えっ、お盆で、お正月で、親戚で集まって食事したりするのかな」、「もしかしてこの熱量、姉妹のようにショッピングを楽しむ関係なのではなかろうか」など、いろいろ期待したりしませんか。だから、みんな「すごい」、「すごい」とつめ寄るのです。

  すると、答えがでました。どういう関係なのか。

 「私の『お父さんの、お父さんの、お父さんの、お父さんの、お父さんの、おとうさん(自分の7代くらい前の家族)』から『枝分かれしたご兄弟』で、『あっちが本家で、私が分家』」と言っていました。

  今、あなたが思っていることと、まったく同じです。

  みんな口をそろえて言いました、「他人じゃん」。

  でも100年から150前のご家族から血は、確かにつながっていると思いますよ。このような話を聞くと、「家族とは何だ」、「血とは何だ」という気に、ちょっとなってきませんか。

  さぁ、次はもっと曖昧な関係です。

  あなたのお友達は、どこから友達で、どこから知り合いですか。

  たとえば、もし、あなたが1組の生徒だったとして、2組の全然知らない子は、お知り合いですか?

  3組の子は、どうですか?

  でも、中にはいますよね、「顔を知っていれば知り合いで友達だ」と言う人。だとすれば、日本のまったく裏側のブラジルの方の写真を見た瞬間に、もう友達ですよね。

  そのさじ加減は、それぞれの自由な感性に任されています。けれども、その中でも、どれだけ仲が良いかというのはありますよね。

  それは、どうやって判断していますか?

  私たちは、手をつなげば親友で、手を離せば他人になりますか?

  そうではないですよね。

  たとえば、「これおいしい」、「私もそう思った」、「だよね」といったつながりではないですか。

  「この映画は最高に感動する」、「それ僕もあなたにおすすめしようと思ってた」、「わかってくれるか」といったつながりではないですか。

  私たちは、心を通して相手とつながっていませんか。

  あなたが「いいね」、「好きだな」と思うものを、「僕も、私も、同じ」とつながりませんか。

  さらに、もう一歩進めます。

  たとえば、あるとき、あなたが体調をくずして風邪をひいて学校に来ました。そのとき、いつもは仲の良かった友達から、「風邪をうつさないでよ」、「体調管理がなってないんだよ」、「日頃の行いが悪いからだよ」とか言われたら、どうですか?

  もちろん、冗談だと思いますよ。

  一方、いつもはあまり関わりのなかったクラスメートから、「大丈夫、保健室で休む」、「ノートはとっておくからゆっくり休んでね」、「タオル冷やしてきたからつかって」と、あなたのことを気遣ってくれたら、どうですか。

  いつもは楽しく過ごしていたけれど、つらいときに何だか少し突き放してくる人と、普段、あまり関わりはなかったけれど、あなたが弱っているとき、困っているときに助けてくれる人。

  どっちが、あなたにとって大切な人になりますか?

  私たちが、心の中で求めている関係とは、こういった関係ではないでしょうか。ピンチのときに手を差し伸べてくれる人、痛みをわかってくれる人。そのことを知ると、「自分もその人のようになりたいな」と思うことは自然なことではないでしょうか。

  もちろん、いつも仲良くて、困ったときも頼りになる人がいいですよね。今は、イメージしやすくするために、このように話しました。

  『ヨナ書』の2章では、ヨナがお魚の中でお祈りをしていますよね。そして、イエスさまは、「これが御子のしるしだ」というのです。

  このお魚というのは、たとえ話なのです。

  聖書は、神とイスラエルとの関係において重要な事実や歴史的な出来事を伝えています。けれども、それと並行して天の国の秘密が隠されたたとえ話が語られています。

  ひと言だけ断りを入れておきます。

  私たちは一人一人が神さまから役割を与えられていて、それぞれがイエスの働きを担い任されています。ですから、似たようなお話をすることもあれば、まったく異なるお話をすることもあります。

  たとえば、歴史的・文化的なアプローチでお話をされる方もいれば、道徳としてお話をされる方もいます。ほかにもいろいろありますが、それはすべて御言葉の理解から、父の御心に至る道を示しています。

  私が、これからお話しするのは、『ヨナ書』が“預言書である”ことに注目したお話です。

  さぁ、海ですけれども、あなたは海の中で息をすることができますか?

  人は、海で息をすることはできませんね。

  この息という言葉は、ユダヤ人の言葉でほかにも“風”とか“聖霊”といった意味もあります。

  海というのは、神の言葉を知らない人たちの住んでいる場所というたとえ話なのです。その中のお魚というのは、異邦人たちのことを表しています。

  『レビ記』で、神は「食べてよい魚は、“ひれ”と“うろこ”のあるものであると言われています(レビ11:9-12)」と言われました。

  今回は、うろこのお話をします。

  うろこというのは、聖なる装いのことです。『ヨナ書』の3章をお話したときにもありましたが、粗布と同じ意味です。

  そのうろこ、粗布とは、神の前でまことに価値のある装い、柔和でしとやかな気立てという内面的な人柄のことです(Ⅰペトロ3:4)。

  もう少しお話しすると、そのお魚を食べるとは、どういうことか。

  食べ物を食べると、それは私たちの健康を維持したり、成長のための体の一部になりますよね。

  それは、キリストは私たちの頭であり、私たちはその体の一つ一つの部分ですと言われるように、そのような神の前にへりくだり、唯一まことの神に助けを求める聖なる民をイエスの体の一部として、教会の一員として招きなさいということです。

  そのお魚の中にヨナはいるでしょ。

  私たちは、どうやってつながりますか?

  「これおいしい」、「おいしいね」と、心を通してつながりますよね。ヨナは、お魚、神を求めている異邦人たちと、今、心でつながっているのです。

  『出エジプト記』の中で、モーセが幕屋の中で神と、顔と顔を合わせて会話をしていました。

  今、ヨナがお魚の中でやっていることが、それと同じなのです。

  生活を振り返って、「あなたそれでいいんですか」ということを神から問いかけられているのです。

  『ヨナ書』の1章では、嵐の中で船乗りたちがそれぞれの神々に助けを求めていますよね。

  ヨナは、寝ていました。

  嵐のような世の中の流れの中で、いったい何が正しい生き方なのか、誰を頼ればいいのかわからない。自分は神のもとで安心して生きているけれども、自分も神を知る前は、そうだったなということを、ヨナは振り返っているのです。

  この大祭司は、自分も弱さを身に負っているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。

ヘブライ人への手紙 5章2節

  ヨナがお魚の中で、神を知らない人々の苦しみや、自分が神を知らない生き方をしていたら、どうだろうか。そういったことを思い巡らせているのです。

  それでは、私たちはどうすればいいのか?

  イエスさまは言われます、「友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない(ヨハネ15:13)」。

  この命とは、何なのか?

  イエスさまは、こうも言われています。

  命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない。私があなたがたに話した言葉は霊であり、命である。

ヨハネによる福音書 6章63節

  イエスさまが言っておられる“命”とは、心臓の鼓動のことではありません。

  たとえば、あなたがお菓子を食べていると、お友だちが「おいしそうだな」と見ています。

  どうしますか?

  「一緒に食べる」と声をかけませんか。あなたは一人でお菓子を全部食べることもできる。けれども、あなたの持っているものをお友だちと喜びを分かち合うために与えませんか。

  これが命を捨てることなのです。

  また、あなた何かやっていたことがある。けれども、どうやら友達が困っている姿が目に入った。

  どうしますか?

  「何か手伝えることある」と声をかけませんか。あなたは自分がやっていたことをいったんやめて、お友だちを手助けするために自分の時間を裂いて、そのお友だちのもとに向かいませんか。

  それが命を捨てることなのです。

  そんなことでいいのですか。聖書の中では、もっと身を裂くようなお話がたくさんありますよね?

  なぜなら、イエスさまは、こうも言われるからです。

  ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。

ルカによる福音書 16章10節

  その小さなことを尋ね求めていくと、イエスさまの言われる命とは、どのようなことを言われているのでしょうか?

  だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。

マタイによる福音書 7章12節

  イエスさまの言われている命というのは、この聖句につながってくるのです。

  イエスさまも、眠っている弟子たちの前で祈られましたよね、「私の思いはどうあれ、あなたの御心がなされますように」。

  だから、ヨナも「あんなニネベなんて滅びればいいと思っていたけど、二ネべに行きます」。ヨナは二ネべに悔い改めを告げに行きます。

  けれども無理をする必要はありません。

  あなたは心が狭くならないように、「これくらいだったら、快く取り組むことができる」というさじ加減を探していくのです(ルカ11:41)。

  私たちは、小さなことを守ることによって、それが少しずつ大きくなっていくように求めることです。

  そうすると、あなたにとっては小さなことが、ほかの人にとっては大きなことになっています。

  その時、イエスさまは、何と言われると思いますか?

  そこで、王は答える。「よく言っておく。この最も小さな者にしたのは、すなわち、私にしたのである。」

マタイによる福音書 25章40節

  私たちは、お友だちの助けになることで、イエスさまと出会い、神を見るのです。

  それでは、お友だちは、神を求める異邦人たちは、どうやってイエスさまと出会うのですか。

  心の清い人々は、幸いである / その人たちは神を見る。

マタイによる福音書 5章8節

  お友だちは、あなたの姿を通してイエスさまを出会います。

  私たちは神にあって一つです。

  そのためには、ヨナがお魚の中で人々の苦しみを知ったように、人の痛みを知って、共に担う私たちを求めていくことなのです。

  こうして「多く集めた者も余ることがなく、少なく集めた者も足りないことはなかった」と書いてあるとおりになります(出16:18、Ⅱコリ8:15)。


  私たちが神の言葉を逃すことなく、聞き分け、これまでにも増してイエスさまに向かって成長していくことができますように。

  お祈りをします。


【 お祈り 】

  天の愛するお父さん、『ヨナ書』を通してあなたの言葉を聞きました。あなたはモーセにも語られたように、「天地創造に立ち帰って思い巡らせて見よ」と言われます。

  私たちがあなたを知った時のことを、いつも忘れず、あなたと共にいることを教えてください。

  私があなたにしてもらって嬉しかったことを、私もあなたにすることができますように。

  あなたが私に寄り添ってくださったように、私もあなたを求める人々の痛みに寄り添うことのできるようにしてください。

  アーメン。

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