嫌なものを嫌と言える力

まずこのポストを見てほしい。

なるほど確かに近頃は理不尽を受け流す力が持て囃されているが、理不尽を放置した社会の行く末を想像してみれば、なんだか暗澹として荒廃している。時には嫌なものは嫌とハッキリ言える、いわゆる「Noと言える日本人」である必要があるのだろう。

しかしがむしゃらに理不尽に立ち向かえばいいのかというと、それはそれで違う気がする。その反発の結果は各人の手腕によって変わってくるだろうし、そもそも最近は単騎でなく団体で戦えという風潮もある。

このポストは「やり返す力」の具体的なところは一切説明していないが、それは文字数の制限とか、そもそもそんな説明義務はないだとか、とにかく詳細を明かす義理はひとつもない。だから私が考えよう。

……とは今回ならない。今回は全然逸れた話になる。

私は受け流す力について引っ掛かりを覚える。そもそも伝統的にネットでは受け流す力のことをスルースキルと呼んでいて、これは特に匿名掲示板なんかの荒らしに対して発揮されていたものだ。

荒らしの本質はかまってちゃんであり、構わない事こそが最大の対抗手段である、という背景があり使われていたのがこのスルースキルである。

だがどうだろう、それと先ほど言われた「受け流す力」は別物に感じないだろうか。ネット上ではスルースキルを重視する流れがうっすらと残っているような気がするし、正直先のポストの「受け流す力」はこの辺りと混同していたり、全く別物として扱うべきな気がする。

これを私の偏見ベースで考察していこうと思う次第だ。

まず第一に、ポストの受け流す力は、伝統的なスルースキルとは全く別物と考えた方がいいだろう。「スルースキル」は掲示板の嵐に対して発揮されてきた力であるが、「受け流す力」は現実で対峙する理不尽と折り合いをつける方法の一つである。

大前提として、掲示板の荒らしは無視すればいないものとして扱えてしまうほど存在がふわふわしている、だが現実で受け流す力を使うべき相手は、例えばパワハラ上司であったり、根性論を振りかざす部活の顧問であったり、毒親であったり、とにかくかなり存在感が強い。

どれも自分から引きはがし難い存在たちであり、えてして反発するとこちらに反撃を加えてくる。受け流す力は事なかれ主義的だ。反発しなければ、反撃もない。触らぬ神に祟りなしである。

……それで、何が言いたいんだ?両者は全く別物で、お前が勝手に二つをくっつけたり離したりして遊んでるだけじゃないか?と言われそうだ。

私が言いたいのは、伝統的なネットの荒らしに、嫌と言ってはいけないということだ。

よくいるではないか。誰かのポストに嚙みついて頭の悪い会話を繰り広げる、いわゆるクソリプの類が。あれに対して嫌と言ってはいけないということだ。ああいうのは無視してブロックするに限る。彼らはコミュニケーションに飢えているのだ。たとえそうして向けられるのが純粋な嫌悪感だったとしても、彼らには貴重な経験だ。

今はもっと事情が悪い。コミュニケーションの激しさは耳目を集め、注目度は収益につながる。現代社会で伝統的な荒らしの手口を応用すると金が稼げるのだ。

あとは、受け流す力で受け流された人の行きつく先も、この荒らしだったりする。彼らもまた、コミュニケーションに飢えている。受け流されたら話は一方的になるのだから、ある種の片思い状態になるのだ。その鬱憤をネットにぶつけるという問題も、もう馴染みがあるだろう。

だから、荒らしはスルーしなければならないのだ。それだけ。

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