見出し画像

映画『ニトラム』、水平線の先に見えるもの。

二トラムNITRAMという呼び名は実名であるマーティンMARTINの逆さ読みであると同時に「しらみ」という意味の蔑称でもある。

ジャスティン・カーゼル監督は死者35人、負傷者15人の犠牲者を出したオーストラリア史に残る無差別銃乱射事件、ポート・アーサー事件を映画化するにあたり生存者や被害者に対して敏感になる事や、共感の扱いには注意したと述べている。つまり、実名を出すことや犯行を描写する行為は遺族に更なる苦しみをもたらし、同時に作品に感化された模倣犯やフォロワーを生み出す可能性があると指摘したのだ。

事実、近年では映画『JOCKER』に感化された男が京王線の車内で乗客を刺し逮捕された事件が記憶に新しい。『JOCKER』はホアキン・フェニックス演じるアーサーの内面に深く入り込み、悲劇のヒーローとして彼を祭り上げカタルシスを生み出していく、見方によっては非常に危険な作品だ。

一方、『ニトラム』は彼と受け手の間に適度な距離感を感じる。過剰な演出は排除され、音楽、撮影は彼の日常を淡々と紡いでいく要素に過ぎない。近づき過ぎると見失うものがあり、遠すぎても実態は見えて来ない。絶妙な距離感で彼を見つめる。

では本作がピンぼけした作品かと言われれば全くそうではない。むしろ監督はニトラムの抱える生きづらさや彼を取り巻く世界をありありと捉えている。対照的だがどちらも結果的に彼を苦しめている両親、ニトラムの衝動性をも許容し、母性と父性を持ち合わせたかのようなヘレン、見下した態度のサーファー、彼に激怒する車のディーラーなど、彼に対する人々の態度は千差万別だ。不幸なことにそれが彼をますます混乱させていく。恐らく彼自身が他人とどう接して良いか分かっていなかったのだろう。そこに『ニトラム』のやるせない悲しみがある。

主演のケイレブ・ランドリー・ジョーンズの戯けなさが残る顔立ちは甘えん坊の少年のようであり、ブロンドの長髪はロックスターのような衝動性、暴力性を象徴しているかのようだ。そして日焼けしていない色白な体、腹周りの贅肉は自分以外になることができなかった二トラムの悲痛な思いが感じられる。

彼が見つめた水平線の先にはいったい何があったのであろうか?それを考えていくことがわたし達に残された課題であり、この作品のメッセージなのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?