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凄いスパイ映画『偽の売国奴』

 『偽の売国奴』という今ではもう忘れられた映画があるのを知ったのはパラマウントのアベイラブル・リスト(いわば売れ残りの未発売作品リスト)の中に見つけた時でした。「偽の」「売国奴」ですからこの邦題が意味するところは分かりますけれど、少し邦題としてはどうかなと。原題は「偽装の裏切り者」ですから確かにその通りなんですけれど、
 『偽の売国奴』はジョン・ル・カレが描くようなプロのスパイではなく、市井の市民がスパイにされる恐怖を描いています。
 1942年ストックホルム。スウェーデン国籍を持つ石油商のエリクソン(W・ホールデン)は、ドイツに石油を売っていたため、連合軍のブラックリストに売国奴として名前をかかげられ、友人や家族からも白い眼で見られるようになっていた。
 そんな彼に目を付けたイギリスの諜報部員コリンズ(H・グリフィス)は、連合軍のスパイとなって働けばブラックリストから名前を消すことができると持ちかけた。エリクソンはコリンズの申し出を承諾するしかなかった。彼の任務はドイツ国内に駐在している精油工場の所在地を探り出すことだった。
 エリクソンはベルリンへ行き、旧知のドイツ石油協会会長オルデンブルグ男爵を訪ね、手がかりを求めたが、間もなくドイツはスウェーデンから石油を買わなくなると聞かされた。そうなればエリクソンがドイツへ行く口実がなくなってしまう。そこで彼はストックホルム駐在のドイツ高官たちに国内での精油工場建設プランを提案し、了承を取り付けることに成功した。だが、仲間や友人たちからは一層反感を抱かれるようになってゆく。
 

 この時代のこととはいえ、ここまで一人の人間が、友人や家族にまでも白い眼で見られ、孤立しながら売国奴を演じなければならない苦しみ、つらさを克明に描いた作品はないと思います。もうひとつの観点では一般の人がそこまでの使命感を維持し続けることがはたして可能なのかという点。これをリアルに描き出すには主人公エリクソンを演じる俳優から誠実さや強い意志と絶望感や孤独感を感じなければ成り立ちません。その点、ウイリアム・ホールデンはまさに適役としかいいようがなく、なぜこの名作がもっと語られないのか、語り継がれないのかが残念でなりません。

完成度の高い傑作


 そして、本作を語るうえで、監督・脚本を担当したジョージ・シートンを称賛せざるを得ないでしょう。
 ジョージ・シートン監督といえば『三十四丁目の奇蹟』『喝采』そして『大空港』が有名ですが、その緻密な構成力によって濃密な映画体験を味あわせてくれるので、大好きな監督です。
 よく最近「伏線回収」といった言い方をしますが、シートン監督の場合はそれが実にさりげなく、かつ必然性を持って画面に現れるので映画を観終わるころのカタルシスが心地よく、やたらめったら伏線を張り巡らして「これでもか」というやり過ぎな印象がありません。『偽の売国奴』でも冒頭に登場するユダヤ人の親友が後々に効いていました。
 『偽の売国奴』では同じスパイ活動を強いられたもう一人の女性、リリー・パルマーが登場します。ホールデンとお互いの身を思い、情感を深めてゆく過程が素晴らしいのですが、そのパルマーの行動がドイツ側にばれてしまってからの展開がすごいです。パルマーと親しかったホールデンにも疑いの目が向けられます。もしここで自分の正体もばれてしまえば、これまでの苦労がすべて無駄になり、自分も処刑されてしまう。二度と家族にも友人にも会えない。何より世界に対して真実を伝えることができなくなってしまう。そこでホールデンが取った行動は・・・。この脚本は凄い!ホールデンの演技もさることながら、全身の毛が総立ちするような演出と展開、場面構成に脱帽しました。あまり詳しく書くとまだご覧になっていない方のご迷惑になると思いますので、これ以上は書けませんが、観客の心を揺さぶる素晴らしい作品です。
 今なおウクライナ・ロシア戦争は続いていますが、もしかするとウクライナの市井の市民が、映画と同じようにロシアに入りこんで、神経をすり減らすような情報戦に巻き込まれてやいないかと余計な想像をしてしまいます。  
 ジェームズ・ボンドが秘密兵器を駆使して悪に立ち向かうのも楽しいですが、こうしたリアリティを追及した戦争秘話も大変見ごたえがあると思います。

 以下、無用のことながら。

 『偽の売国奴』は実在した石油商エリック・エリクソンが体験した半生を下敷きにしています。
 エリクソンは、第二次世界大戦中にスウェーデン出身の連合国側のスパイとしてドイツに潜入します。ドイツの上層部に入り込むためナチスを賞賛する姿勢を周囲に誇示し、自らヒットラーを称賛しました。中立国であるスウェーデンでは周囲から孤立し、妻はノイローゼになりました。この暗い時代のことを考えると胸が詰まります。
 彼はナチス・ドイツの原子爆弾開発計画に関する情報を集めるために、ドイツの核物理学者であるヴェルナー・ハイセンベルクと接触しました。エリクソンは、ハイセンベルクがドイツに原子爆弾を開発するために必要な資源や技術が欠けていることを発見し、連合国側に報告しました。
 さらに、エリクソンはドイツの航空機産業に関する情報も収集しました。彼は、ドイツの重要な軍事施設に潜入し、そこで収集した情報を連合国側に送信しました。よくそれだけのことができたなと思いますが、スウェーデン国籍であることや、資源のないドイツにとって必要不可欠な石油供給者だったということもあったのでしょう。
 エリックがもたらした石油工場の位置情報は正確で、連合国軍は正確に爆撃を与えることができ、大きな成果を上げました。ドイツ軍は占領地域に配備していた軍備に燃料を供給することができなくなり、戦闘機・戦車を放棄して撤退、最終的な敗北に繋がりました。これがたった一人の勇気ある人物によってもたらされたのです。
 エリクソンは、ドイツの秘密警察であるゲシュタポによって発見され、逮捕された後、拷問を受けましたが、情報を漏らすことはありませんでした。後に、イギリス軍によって解放され、スウェーデンに帰国しました。
 こういうエピソードを戦争秘話と呼ぶのでしょうが、彼が生き残れたからこそ現代に伝わる話であり、もし彼が追いつめられて死を選んでいたらと思うと・・・。その命の重さ、そしてその世界とのつながりに深い感慨を感じました。

 最後に、ジョージ・シートン監督とウィリアム・ホールデンはもう1本『誇りと冒涜』でタッグを組んでいます。共演はデボラ・カーとセルマ・リッター。こちらはパラマウントにデジタルマスターが無く、復刻を断念せざるを得ませんでした。カーク・ダグラスと組んだ『零下の敵』もリリースまで手が届きませんでした。力不足を悔いております。

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