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映画備忘録:失われた土地への鎮魂歌『百年の絶唱』×『路地へ 中上健次の残したフィルム』

 6月17日(土)にアテネフランセ文化センターにて開催された、映画一揆外伝が主催の破れかぶれの映画史へ行ってきた。去年逝去されたた青山真治の一足遅れた追悼上映ということで、監督作の『路地へ 中上健次の残したフィルム』が目玉とも言える上映会だった。
 しかし、個人的に楽しみにしていたのは併映作品『百年の絶唱』だった。200分の超大作にして異形の傑作『ラザロ』の監督にして、『雷魚』といったピンク映画から近年は山戸結希の映画で脚本を手掛ける井土紀州の初監督作。シネフィルの間では隠れたカルト映画として評価が高く、ソフト化されていないにのに加えて上映される機会も少なく、ずっと観たいと思っていた。
 今回の特集でようやくスクリーンで対面。期待に違わぬ怪作だった。

 端的に言ってしまえば『百年の絶唱』は幽霊ホラーだ。中古レコード屋でバイトしてる青年が、失踪した男のレコードを引き取ったことで故郷の村をダムに沈められた者の怨念に取り憑かれる物語だ。
 前半は「音楽」というモチーフに溢れている。主人公が売れない作詞家という設定や、霊障に襲われるきっかけとなるレコード「和田アキ子・オン・ステージ」、主人公に「故郷をダム建設で失った男“圭ちゃん”」が憑依するトリガーとなる女の歌。

「和田アキ子・オン・ステージ」

 しかし、音楽は主人公が霊障に憑かれていく過程を描くプロップに過ぎない。ではこの映画が描いているのは何か。それは「上から下へ」を描いた作品ではなかろうか。
 本作には「上から下へ」という換喩的なイメージが氾濫している。主人公が霊障に遭遇した夜に不眠に襲われるシーンで台所の蛇口から水がポタポタと下へ垂れるSE音が流れ、ナメクジが壁を這う接写シーンで血の雫が壁を上から下へと流れる。
 また、水を媒介としたイメージだけでなく、“圭ちゃん”の怨念が憑依した主人公がダム建設に関わった人間を殺していくシークエンスで、階段を登る最初の標的を松葉杖で殴打し下へ落ちた所を刺殺するシーンの中にも「上から下へ」という運動が描かれる。

 なぜ「上から下へ」というものが頻繁に登場するのだろうか。“圭ちゃん”の怨念の根源には、故郷の村をダム建設によって追われ、村がダムの底へと沈んだことにあることが、後半の“圭ちゃん”の視点とも言うべき回想シーンで描かれる。ダムは山の水を放流し、その水が下へと流れ都会の水道へと行き着く。そう、この映画はダムによって故郷を沈められた人間の怨念が、ダムの水のように「上から下へ」と流れて行く、怨念の物語として見ることができる。

 アヴァンタイトルがまさに「上から下へ」というのを象徴しており、村が沈んだダムと沈むのを免れた廃校のインサートショット→新宿の歩行者天国を松葉杖で歩く“圭ちゃん”の後ろ姿へとジャンプカットする。怨念が山の「上に」あるダムから山の「下」にある都会へとやって来た、と映画を観るリテラシーのある人間ならすぐそれを想起するだろうが、個人的にはそれ以上のものがあると思う。
 現在の新宿は、川を埋め立てたり蓋をして地下を流れるよう工事する「暗渠化」されて開発された土地だ。新宿歌舞伎町には「蟹川」、新宿御苑には「渋谷川」、はたまた西新宿には「神田川支流」が昔は流れていたが、今は川は存在せず、川は人々が歩く道の下を流れて行く。
 映画のアヴァンの話に戻ると、高度経済成長によるダム建設によって村をダムに沈められた怨念が、同じく好景気による再開発によって川が暗渠化された新宿へと舞い降りる。二つの土地が人間の手によって昔の風景を失った場所だという類似は決して偶然ではなかろう。

 これまで前述してきた「上から下へ」という観点で映画を観ていると、クライマックスで「下から上へ」という逆転現象が起きる。“圭ちゃん”の怨念と同化した主人公が最後の復讐相手を海まで追いつめて殺害した直後、それまで松葉杖をついて歩いていた主人公が松葉杖を捨ててダムに向かって疾走を始める。
 疾走シーンでベートーヴェンの第九が流れ、憑依して以降“圭ちゃん”の姿をしていた主人公がトンネルを通った瞬間に元の主人公の姿に戻るワンカット長回しと、音と画による快感は勿論ある。
 しかし、それ以上に「上から下へ」と流れるように繰り広げられた怨念と復讐が、ダムの水が最終的に流れ着く海で終えた瞬間に、怨念が海から故郷が沈んだ村に向かって「下から上へ」と走っていく姿は、意表を突かれると共にカタルシスを禁じ得ない。


『路地へ 中上健次が残したフィルム』

 『百年の絶唱』の後に上映された『路地へ 中上健次の残したフィルム』は、去年同じアテネフランセ文化センターで催された青山真治追悼特集で鑑賞したばかりのため、感想は短めに留めて行く。
 再見したファーストインプレッションは、青山真治は乗り物を撮ることに卓越した映画作家だということだ。序盤、井土紀州が運転する車の車内から撮ったショットが続き、列車と並走する瞬間に満を持して車の正面カットが来る。このショットの高揚感は映画の白眉といっても過言ではない。この映画を撮った直後に、青山真治と撮影の田村正毅が『EUREKA』を撮るわけだが、あれもバスや自転車で移動するショットが素晴らしい。

 『路地へ』は、中上健次が小説の舞台となり、地区改良工事でもう存在しない「路地」の跡地を辿りながら井土紀州が中上健次の小説を朗読していく構成の中に、「失われた土地」への鎮魂歌みたいなものがあったが、併映作品の『百年の絶唱』もダム建設によって失われた土地への鎮魂歌ともいうべき作品だった。
 『百年の絶唱』が冒頭に登場するダムを起点に「上から下へ」と怨念が流れていく映画に対して、『路地へ』は海のロングショットで締め括る。「気が利いてる」という以外の言葉が見つからない見事な2本立てだ。

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