運命の存在について

運命の存在について(「錦繍」作:宮本輝 を読んだ読書メモ)

この物語をある視点からすごく雑にまとめてしまうと、「訳あって離別した男女の未練の話であり、未練を抱えながらも互いの未来の幸福を願い、それぞれの人生を歩もうと決意する男女の恋愛物語」と言える。
確かにそうも読めるのだけれど本質的にはそうではない気がした。そこがこの小説のミソなんだろう。上記の類の恋愛物語は世の中に腐るほどあるが、この小説はそれらとは一線を画している。

大きな違いは、この物語が男女の未練や葛藤、過去の苦悩や決意―そういった二人の「自我」の次元をテーマにした物語ではないという点だと思う。
自我を超え、それらをより高次元で操る運命の正体や、(作中の言葉を借りれば)「生命のからくり」「宇宙の不思議なからくり」にこそこの物語のテーマが据えられていて、人間の自我(自分という人間の複雑な意識)は、実は我々自身によって生み出されているのではなく、より巨大ななにものかによって理不尽にも支配され、操られ、我々自身ではどうすることも出来ないものである― そんな印象を抱かせる物語になっている。

例えばそれは、男が死に際に自身の身体から離脱し「命」を見たという非現実的な体験や、生まれながらにして持つ身体の障害、人間固有の「業」というものの正体、言葉を変え品を変え、作者は生命の、宇宙の不思議なからくりの輪郭を執拗なまでに様々な角度から描き、イメージさせるべく言葉を尽くしている。
我々人間はきっとなにものかに操られている、そんなどうしようもない運命の中で人間は生を営んでいるー。
その理解の中で、我々読者は冒頭に記載した男女の未練なり苦悩なり決意の様を見る。そのため、二人の恋愛物語がただの甘い感傷にはならない。どちらかと言うとそんな二人の人間の営みの儚さや運命の残酷さ、それでもそのことを受け入れるしかない人間の宿命といったものに対しての醒めた視点、それ故に得られる(感傷と言うよりは)感慨を得るに至る。我々読者は二人の主人公の感情に寄り添いつつも、物語を二人の主観とは別次元の視点から俯瞰して見ることを強いられる仕掛けになっている。

物語の終盤、主人公の女自身がこの運命めいたもの大きな力の存在を自覚し嘆きつつ、
「過去が今を作るなら、未来すらもその過去の呪縛から離れられないのではないか? いや、<今>を懸命に真摯に生きることが<未来>を作るのだ」
的なことを、精一杯に言葉したためる場面がある。これは一見作者自身の考えであるかのようにも解釈出来るが、個人的にはそういう意図ではない気がしている。
むしろ、それすらも「そう思い信じて生きていくしかない」人間の儚さとも悲しみと映った。
では、この不思議なからくりをの中で右往左往するしかない人間の存在、彼・彼女らの人生をどう捉えるべきか? その答えが直接的に示されているわけではない。
直接的ではないが、そういう宿命にありながらも今を生きる人間たちの生き様をもって、錦繍さながら「美しさなのである」という回答で編んだ物語だと感じた。

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