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日本学術会議の任命拒否問題を時系列で追ってみた

論点がどんどんずれる面倒な「ご飯論法」

「どんなお仕事が多いんですか?」と聞かれて、「政治経済以外はなんでも」と答えるくらい、政治経済には疎い。一応、経済学部卒業だが、実態は、軽音楽部卒業である。そんな私でさえも、最近は政治に関心を持つ羽目になってきている。理由は、あまりにも情報が公開されず、漏れ出てくる話のつじつまの合わなさ、社会常識とかけ離れた理屈が、政治オンチでも気づくくらいだからだ。できれば、身の回りのことだけに関わり、ゆるく生きていきたかったのに、「庶民がそこそこ生活できるように、よしなにやっててください」と言っていられない社会になってしまったのだなぁ、と思ったりしている。

 最近のトホホな話題と言えば、日本学術会議の新会員に関する任命拒否の問題だろう。発覚から10日経つが、日々、ニュースを読めば読むほど、「えーっと、これが日本を代表する政治家の言動でしょうか?」と情けなくなってくる。が、そこで「そういう人たちだから」と甘く見ていると、とんでもない方向に持っていかれてしまうので、仕方なく大量の中高年男性(「おっさん」と書くと差別云々と言われてしまうご時世なので、硬く書く)の行動と言動を目を離さずに追っていくしかない。

 安倍政権になって指摘される議論の仕方に「ご飯論法」というのがある。「朝ご飯は食べましたか?」と聞かれ、朝食にパンを食べているのに「食べていません」と答える手法だ。「ご飯」には米飯だけでなく、「食事」の意味もある。日本語の会話では、「朝ご飯を食べたか?」と聞かれれば、前後の文脈にもよるが、食べた内容がなんであれ、「食事をしたか否か」の質問の意味で聞かれていると解釈するのが、これまでの一般的な認識だった。しかし、「ご飯論法」では、「ご飯」の広義の意味をあえて狭義にとらえ、「ご飯」=「米飯」と解釈して答えていく。

 こうした意味の取り違えは、ふだんの生活でも起こることはある。また、コントやコメディでは、意味の取り違えが笑いを生み出すことが多い。問題なのは、なんらかの理由を明確に持ち、わざと意味を取り違えて答える場合だ。会話が成立しなくなり、議論がどんどんずれてくる。そして、ずらされているほうは、混乱させられることで語る言葉を失い、追い込まれていくこともある。オウム真理教が事件を起こす前、TVに盛んに出ていた頃の「ああ言えば上裕」を思い出す。あれを当時のマスコミは「ディベートとはそういうものだ」と持ち上げていたときもあった。

相手を混乱に落とし入れる会話術

「ご飯論法」を始め、「桜を見る会」問題や森友問題なども含め、内閣や政府の答弁の手法は、私にはけっこう馴染みのあるものだった。質問者の疑問には的確に答えず、論点をずらしながら、相手を混乱に落とし入れる会話術は、仕事で遭遇することがあるからだ。

 フリーにはイレギュラーで呼ばれる仕事も多い。プロジェクトの立ち上げからではなく、進行している真っ最中に呼ばれる場合は、たいてい火中の栗(*)を拾うような、修羅場の助っ人として呼ばれる。揉める要素を隠し持った現場なので、できれば避けたい仕事なのだが、フリーはそうも言っていられない。それがきっかけで仕事先が増えることもある。

 が、どちらかといえば、期待してうまくいかなかったほうが多いかもしれない。外部の人間が呼ばれるくらいだから、一筋縄では解決しない問題ががっちりと存在し、しかも、その原因がプロジェクトをコントロールしている側にあることが多い。

 私も黙っていればいいものを、わかりきった無駄に従うのが嫌いな性分なので、つい矛盾点を突いてしまう。そもそもフリーは時間を売ってお金をもらっているので、不必要な仕事はできるだけ圧縮したい。が、見通しのよい状態に整理整頓しようとすると、原因となる人と対決することは避けられない。そして、解決策に納得してくれる人は稀だ。目的を考えれば、混乱状態を解消し、プロジェクトの成功を目指すほうがよほど業績につながると思うのだが、それよりも混乱状態を続けたほうがいいらしい。このとき、よく遭遇するのが「ご飯論法」のような論点ずらしだ。そして、最後は人格攻撃になる。ご苦労なことである。

 何度か論点をずらす会話術を経験して気づいたのは、仕掛けてくる人は違うのに、最初から最後まで、起こるプロセスがとてもよく似ていることだ。私も若かりし頃は、「経験が足りなかったから」とか「何か悪いことをしたからだろうか」と自分の至らなさが原因かと思っていたが、あまりにも同じパターンが続くので、「私のせいではないのでは?」と思うようになった。今回の日本学術会議の経過も、既視感ありありだった。

 論点がずれて混乱させられているときは、時系列で事実関係を並べてみるのがいちばんの解決策だ。ここ数年の政府の回答は、論点がどんどんずれていくので今回もそうだろう、と予想し、発覚した1日から新聞などのニュースをぽちぽち拾いながら、メモしていくことにした。

任命問題を時系列で並べて残る2つの疑問

 個人的にまとめたメモなので、漏れもあるが、だいたいこんなところだろう。「確実に起きたこと」を並べるのが目的なので、感想や個人の見解になってしまうSNSなどの情報は入れていない。

 そして、これらのニュースから「起きたこと」を時系列にコンパクトにしたのが、このページだ。

 10月9日時点で解明されていない疑問点は、次の2点だ。

★8月31日に日本学術会議が推薦したのは105名。9月28日時点で名簿の人数が105人から99人に減少。99名の名簿は見たが、105人の名簿は見ていないと菅首相は10月9日に回答。人数を減らす指示をいつ、誰が、どのような理由で行ったのかが不明。政府は人事に関わることなので控える、との回答のみ。
★2018年に「日本学術会議の推薦通りに任命する義務はなく、拒否できる監督権がある」と内閣府が示し、内閣法制局が了承しているが、この内部文書をどのような経緯で作成することになったのか、誰がいつ指示したのかが不明。

 上記はただ単に時系列を追っていくだけで、分かる疑問だ。今週に入り、日本学術会議の存在そのものが問題視されているが、私から見ると、最初に作り始めた櫓にクレームがついたため、すぐ近くの場所に別の櫓を慌てて作り始め、発端の櫓を隠そう、あるいは壊そうとしているように見える。
関係性の有無も不明な話の持ち出し方だが、なぜもっと前にその課題が出ていないのだろう。河野行革相は、「日本学術会議を見直すのは、予算や人員の問題」と説明しているが、税金の無駄を見直すのであれば、定員の話にも触れるべきなのではないだろうか。「人員」は運営側のことで、学者である会員が含まれないのはどういう理由からなのか。また、なぜこのタイミングで見直すのか、それらの具体的な根拠については触れられてない。

 ちなみに「日本学術会議」を10月1日以前で検索しても、政府が存在を見直しする云々の記事はヒットしない。検索漏れの可能性はあるが。

 日本学術会議が政府に2007年以来、答申を行っていないことが日本学術会議が機能していない根拠として挙げられているようだが、学術会議側から、政府から要請がないのだから答申の上げようがないというコメントもある。政府は相手の意表を突くサーブを打ったつもりで、思いっきりレシーブエースで殴り返されているような状態が毎日、続いている。

 ついでなので、日本学術会議のホームページをチェックしてみよう。

日本学術会議の答申ページ

 私が驚いたのは、相当数の提言が提出されていたことだ。それも、教育から男女共同参画、行政記録情報、移植医療など幅広く、私たちの生活に関わることも多い。人文・社会科学・自然科学全分野からの提言ということが一目でわかる。

日本学術会議の提言ページ

 さらに日本学術会議のホームページを見ていて、「なんてオトク!」と思ったのは、「一般公開のイベント」だ。勉強になりそうな公開講演やシンポジウムが多数、開かれている。誰でも参加できて、参加料もタダだ。コロナの影響でオンラインで受講できるので、興味本位でも参加しやすいのがありがたい。

公開講演・シンポジウムのページ

 私は今回の騒動のおかで、逆に日本学術会議のありがたさを知ったくらいだ。それでも年間約10億円は高いのだろうか。たった1日で5229万円も使った「桜を見る会」や1億円近く使う元首相の葬儀のほうが疑問を感じるけれど、それは問題ないらしい。

 私がここでピックアップした情報は、ネットでざっくり拾える情報であり、漏れてるものも多々ある。もっと調べていけば、この問題をどう見るかが変わってくることもあるだろう。

 この問題に限らず、筋が通らないと感じたり、論点がねじれていく問題については、時系列で拾い上げながら、丹念に並べ、矛盾や欠落した情報を探して突き止めていくしかない。たいていの場合、裏側には、表に出したくない何らかの問題が隠れている。それが故意か過失か、あるいは無意識なのか、の違いはあるが。そうした問題をじみーに調べていくのも、ライターの仕事の一つだったりするのだ。


*「火中の栗を拾う」は大辞林によれば、フランスの諺なのだそう。猿におだてられた猫が火のなかの栗を拾い、大やけどをしたというラ=フォンテーヌの寓話に基づくとのこと。「へーー」と思ったけれど、なぜ猫なのか、よけいな疑問が浮かんでしまった。猫は栗に興味はないし、あの手では火中に手は突っ込めない。犬のほうが素直に猿に従いそうだが。謎すぎる諺。

仕事に関するもの、仕事に関係ないものあれこれ思いついたことを書いています。フリーランスとして働く厳しさが増すなかでの悩みも。毎日の積み重ねと言うけれど、積み重ねより継続することの大切さとすぐに忘れる自分のポンコツっぷりを痛感する日々です。