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女性の歴史は日本の裏歴史

球種を増やすのも作戦のうち

 ホイチョイプロダクションズの本が一部で話題になっているらしい。久しぶりに「ビックコミックスピリッツ」を読むと、「うわっ!ホイチョイプロダクションズ、まだ続けてるのか」と思ってしまうくらい、私も長年、彼らのコンテンツには親しんできた。大昔の写真を引っ張り出したら、「彼女が水着に着替えたら」の原田知世ヘアをしている自分に爆笑したこともある。それくらい同世代のコンテンツなので、読まなくてもおおよその想像はつく。

 男女差別に敏感なイマドキの女性たち(一括りにするのは難しいな。年代も考え方もさまざまだろうし。強いていえば、40代前半以下?)が嫌悪感を示すことも、よく分かる。その通りだし、正論だ。彼女たちの社会にもの申す姿勢やパワーは尊敬しているし、勇気ある発言の数々を見ると励まされたり、教えられることも多い。

 が、一方で余計なお世話の心配もしている。なぜかというと私の15歳くらい上にあたる団塊世代が、真っ正面から男性社会と闘って玉砕してきているのを眺めてきたからだ。時代の変化を見てきた、いい歳になってくると、今のフェミ論争やミソジニー論争に既視感アリアリなのは否めない。「団塊世代がやってきたことと似てない?」と思う。まったく同じではないし、らせん状に向上しているのだとは思うが。

 正論でぶつかるのも大事ではある。が、男性社会はそれで受け入れたり、理解してくれるほど、やわな存在ではない。高い壁を崩すには、ストレートだけでなく、カーブやフォークの変化球も持ってた方がいいんじゃないだろうか、と思ってしまう。

 ホイチョイは、そういう世代と生きてきたコンテンツだ。真面目に向き合えば、「時代遅れの女性蔑視」の評価になるのも分かるが、変化球で世の中を見てきた人間からすると、「それだけでもないんだよなぁ」と思う。どちらが正しい云々ではなく、擁護するわけでもなく、モノの見方の話として、である。どんなに正論で戦っても今すぐ消去できないものに対しては、生かさず殺さずという作戦もあるということだ。まぁ、そういいつつ、最後はバットで殴り合う乱闘に持ち込むしかないか、と諦めに近い思いを抱く場合もあるのだが。

歴史認識に生まれた空白が分断を生む

 教科書で学ぶ歴史が表の歴史だとすれば、女の歴史は裏の歴史だ。公的に明文化されることはないけれど、文化を通じて受け継がれている歴史。が、このところの論争を見ていると、上の世代から下の世代へ過去のできごとが伝わらず、分断されているように思う。この空白の存在は、「文藝」のシスターフッド特集を読んでいても思ったことなのだけれど。あの特集で面白かったのは、その途切れそうな部分をつないでいたのが、ブレイディみかこさんだったことだ。

 なぜ歴史認識に空白が生まれたかというと、一つに1986年に施行された雇用機会均等法がやはり大きいと思う。あの法律によって、女性も男性と同等に働くことが可能になり、仕事も結婚も子育てもできる環境が広がった。もちろん、足りない部分は多々あるし、非正規雇用が増えている問題等、課題も多い。また、フルタイムでの経済活動だけでなく、家事も育児も女性にのしかかり、結局、負担が増えただけなのではないか?という思いもある。それでも、「女性社員は男性社員の嫁要員」の時代からは、確実に進歩したのだと思う。

 男女雇用機会均等法の施行前は、多くの女性が「一般職」の時代だ。入社しても数年で退社する「腰掛け」と呼ばれ、25歳過ぎたらクリスマスケーキ扱いされた。25日過ぎたら売り物にならない、つまり結婚できない、という意味だ。そのあたりの悲喜こもごもは、80年代半ばから90年代の恋愛ドラマによく描かれている。

 彼女たちの多くは、長く働くよりも主婦になる道を選ばざるを得なかった。ぶっちゃけて言えば、働き続けることが社会から許されず、あまりオトクではなかったのである。それでも、私のような人間が今も働いていることを考えれば、団塊世代より働き続けている総数は多いだろう。また、専業主婦の枠を守りながら、パートで家計を助けている人も多い。少しずつ女性が家業以外の場で働ける環境が広がってきたのは、先達の女性たちが満身創痍になりつつも体を張ってきたからだし、その道を塞がないように私もそれなりに戦ってきた意識はある。

 そんな今につながる状況がありつつも、「最後の専業主婦世代」の存在は、社会に対して発言力の弱い世代をボコッと作ることになった。彼女たちが多くの時間を過ごす家庭は、企業等の経済活動とは違う文脈の生活環境だ。その文脈の違いが情報伝達を妨げ、彼女たちの考えや意見を社会に伝えたり、反映させるバイパスを細くしているのだ。

大多数がどこで時間を多く過ごすかの違い

 専業主婦世代も趣味や子育て、介護の話であれば、SNSでよく発言している。しかし、彼女たちにとって性差別や経済力格差の、どの世代にも共通する男女問題はパーソナルな内容になりやすく、社会問題として捉えにくい。そして、「家の恥」にもつながるため、なかなか他人には語りにくい。

 というような事情から、今、50代半ばから60代の女性たちの意見が社会に反映されにくい、という事態になっているのだ。にも関わらず、先日の朝日新聞の世論調査で、安倍政権をもっとも支持しない層として、この「最後の専業主婦世代」がピッタリと当たっていたのは、なかなか興味深かった。私は結果に対して、「そりゃ、そうだよな」と思ったのだけれど。(その理由はまた別途)

 専業主婦世代の存在が、女性の歴史を次世代に伝える網に穴を作り、裏のさらに裏にもなっていることは、誰か指摘したほうがいいんじゃないのか、と、つねづね思っているのだが、案外、誰も指摘してくれないのだな、これが。書籍や文献になると、「家庭以外の場所で働く女性」と「家庭で働く女性」は別の文脈で語られてしまう。けれど、大多数がどこで過ごす時間が多いのかの違いであって、双方をつなげて考える流れもあっていいのではないか、と思う。

 2000年代までは、読者参加型の女性誌が穴の一部を補う役目を担っていた。しかし、ネットが普及し、最初はブログで、そして次にSNSによって建前重視の情報発信が強化され、女性誌も減ったことで穴はかえって深くなってしまった。実用系の女性誌で長く仕事をしてきた私は、読者を結びつける記事を書いてきたこともあり、紙媒体が衰退する一方で、SNSで女性たちが遭遇する分断や孤立感に出会うと、「なんとかならんものか」と、ろくに詰まっていない脳で考えたりする。

 私の友人は、多くが専業主婦だ。彼女たちは声高に何かを訴えることは少ないけれど、子育てや地域とのつながりを通して社会を支えてきた部分は大きい。そして、とても重要なのが、彼女たちが「おかしい」と感じることは、人間としての生き方を考えたとき、「そうだよなぁ」と納得することが少なくないことだ。食事づくりや子育てなど、「生きる」ことに直結する仕事を続けてきた経験から、地に足のついた感覚が強化されているためではないかと思う。

 また、専業主婦には専業主婦同士のネットワークがあり、そのつながりは、今、流行の「シスターフッド」的な要素も持っている。「愛の不時着」で例えれば、北朝鮮の村で暮らすおばさんグループの連帯だ。彼女たちの関係性は、表の社会から見えにくいのだが、その共感力や連帯力は、社会の基礎を支える重要な柱になっている。そして、新型コロナウイルスの影響で生活のあり方が変わりつつある今は、彼女たちが大切に感じていることに目を向けることも、これからの方向性を考える上では有益なのではないかと思っている。

 今後、女性史にぽっかりと空いている穴を埋め、世代間をつなげていくには、さまざまな場所で女性の姿を増やすしかないだろう。それも男性の影に隠された形ではなく、安定した場所でしっかりと立った形で、だ。

 たとえば、女性政治家の行動が男性社会に適応しすぎているのも、絶対数が少ないからだ。絶対数が多いところでは、同性からの目も増え、実務能力や共感力を含め、連帯が組める相手かどうかも見極められる。その目線があれば、女性の行動は変わってくる。もちろん、なかには孤高の存在として、我が道をゆく女性がいてもいいだろう。要は絶対数を増やすことで、キャラクターが豊富になり、全体のバランスが取れるようになるということだ。考えの違う人たちが同時に存在し、協調したり、議論しながら、あるいは棲み分けることで、最善の共存策を探る社会が私は健全な形なのではないかと思っている。

仕事に関するもの、仕事に関係ないものあれこれ思いついたことを書いています。フリーランスとして働く厳しさが増すなかでの悩みも。毎日の積み重ねと言うけれど、積み重ねより継続することの大切さとすぐに忘れる自分のポンコツっぷりを痛感する日々です。