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ジャニーズ会見で感じる「個人」よりも「ファミリー」を強化する話術に潜む深刻さ

前回の会見でも感じたのですが、東山紀之氏、井ノ原快彦氏、ジュリー藤島景子氏というジャニーズ事務所の方たちの話術と言葉づかいには、一貫して対峙する相手を自分側に引き込もうとするテクニックが盛り込まれています。私はそこが気になって見ていました。悪く言えば、公式の場に立っているにも関わらずに見せる幼さ、個人としての自立性に乏しい言葉づかいに、ぞわっとした気持ち悪さを感じたのです。

日本の芸能界でタレントがファンを増やす話術としては必要だろうし、そのクセが身についているのだなぁ、とは思います。ただ、その話術が記者会見の場では、相手を懐柔して自分を有利な立場に置こうとする姿勢に見えてしまう。

ことに今回の問題は、多数の子どもに対する性被害です。社会経験に乏しい子どもたちは、自分が受けた行為が被害なのかどうか、善悪を判断する力がまだ備わっていません。その曖昧な心理状態に対して、懐柔し、共犯関係に持ち込もうとする言葉をささやくのは、加害者が犯罪を隠すために行うテクニックの一つです。

東山氏、井ノ原氏に会見の場で、出席した記者たちを懐柔しようとする意識は薄かったとは思います。しかし、彼らが発する言葉を見ていくと、よく言えば仲間意識を強化する言葉や言い回しが端々に出てきます。個人対個人として関係を結ぶのではなく、タレントグループという集団、ジャニーズという「ファミリー」を維持するための会話が当たり前の環境に長年いたのだろうと感じるのです。

ジャニーズ事務所の営業戦略として、ファンクラブに「ファミリー」という名称が組み込まれていることにも、ファンを同じ輪のなかに取り込もうとする姿勢が現れていると思います。

そして、おそらく、ジャニーズ事務所のファミリー化に疑問を感じる者は排除されてきたのでしょう。もし、東山氏、とくに井ノ原氏が自分の話術が相手に与える影響を意識してやっていたとすれば、相当に根深い問題を抱える話だなぁと恐ろしさも感じます。

ジャニーズ事務所の人たちが使う言葉を聞けば聞くほど、なるほど、よくできたシステムだわ、と思います。ジャニーズの一員になりたいと考える10歳前後の子どもたちは、家庭や社会による庇護が必要な年代です。また、もう少し成長した思春期の子どもであれば、家庭から離れ、自分の世界を持ちたいと思うものの、周囲の大人から見れば危なっかしく、社会に送り出すにはもう少し時間が必要です。

その繊細な年代の子どもたちに、別の「ファミリー」を与えたのが、ジャニーズ事務所なのだと思います。ジャニーズ事務所にグループが多いことも、疑似兄弟化という形でファミリーシステムを強化することにつながったでしょう。ところが、その「ファミリー」の実態は、性加害という問題を抱える歪んだ家庭だったわけです。

家族とは表向き幸せそうに見えても、ケンカをしたり、親子、あるいは兄弟間に何らかの問題を抱えているものです。他人であれば決別できますが、時間や経済を共にする共同体であるがゆえに、多少の不満はあっても決裂することなく、関係は続いていきます。決裂した場合は、家族という集団から出ていったほうに問題があったのではないか、という目を向けられることが多いものです。

ジャニーズ事務所の場合、ジャニー喜多川氏の性加害が、結果的に「ファミリー」に属する人たちの関係性を強固にし、家族の恥をもらすまいと外界との接触を厳しく制限することになってしまった。そして、その視点で被害に遭った方々の発言を聞いていると、人権を侵害されたにもかかわらず、ファミリーとして属したジャニーズ事務所での思い出を愛おしく語ったり、擁護する言葉が出てくるのも理解できるのです。

日本は「母性社会」と言われます。「母性」とは、ものすごくざっくり言えば、性別としての母親ということではなく、なにもかも包み込むことで社会を維持し、その輪から外れるものに対しては非常に厳しく罰する特徴を持つ社会という意味です。そして、密着した母子関係を切り離し、バランスの取れた関係性にするには、社会の一員として生きるための規範や倫理を教える「父性」も必要になります。

ジャニーズ事務所の運営に関して外から知る情報は、そう多くありませんが、メリー喜多川氏が経営の実権を握り、組織を運営していたことは推測できます。そして、ジャニー喜多川氏はその庇護にあった。典型的な「母性社会」が築かれている一方で、「父性」を象徴する存在がなかったのだと思います。そうした「ファミリー」に属し、芸能界で成功してきた人たちは、母性社会にいることに疑問を感じることなく、あるいは疑問を感じたとしても無視することで、年月を過ごしてきた。その人たちに今、社会を維持する普遍的な規範や倫理を必要とし、なおかつ世界的にも稀な犯罪問題を抱える企業の社長を任せることは、無理がありすぎるなぁと思わざるを得ません。

ジュリー藤島景子さんの「お手紙」によるお気持ち表明も、彼女なりに誠意を見せた文章なのだとは思います。しかし、そこに社会規範や倫理観による視点は欠如していました。では今後、外部から途中参入した弁護士らが「父性」の役割を果たすのでしょうか。私は会見運営に失敗した現時点での対応から考えると、難しいと思います。

「父性」の欠如に気づかず、長年、慣れ親しんだ「母性」のみ存在する組織であることに気づかないまま、ジャニーズ事務所が「再出発」をいくら訴えても、すでに「ファミリー」に属しているファンは別として、ジャニーズ事務所を単なる一つの芸能事務所として捉える社会一般からは、理解と共感は得にくいでしょう。

徹底した母性社会を象徴するようなファミリーシステムを、メリー喜多川氏が意識して作ったかどうかはわかりません。アメリカで生まれ、幼少期を過ごした喜多川姉弟が、日本的な「家庭」の縛りを持ち込んだ組織を形成したところにも、私は戦後の日本の芸能史や家族のあり方を絡めた深い闇を感じます。あるいは、彼らの生きた年代を考えると、アメリカにいた頃は保守思想が強い時代です。日本に移住したことで、戦後に起きた公民権運動や女性解放運動の本流に触れる機会がなかったのかもしれない、とも思います。

そして、ジャニーズ事務所が自民党、それも戦前の思想ファンタジーを重視する保守的な家族関係を国民に強要しようとした安倍政権と相性がよかったことも、なるほどなぁと思ったりします。

ジャニーズ事務所の問題は社会からの注目が高いだけに、ふだん社会問題や家族関係の問題に興味がない人にも、その行方は無意識下であっても自身の生き方に影響を与えるでしょう。それだけに私は性加害問題、芸能界の人権問題、メディアの報道姿勢の問題だけでもないのだよなぁ、と、自分に与える影響も含めて注目していたりするのです。

仕事に関するもの、仕事に関係ないものあれこれ思いついたことを書いています。フリーランスとして働く厳しさが増すなかでの悩みも。毎日の積み重ねと言うけれど、積み重ねより継続することの大切さとすぐに忘れる自分のポンコツっぷりを痛感する日々です。