Valkan Raven #3-1


 何時かは、誰もが必ず今までの自分を捨てねば生きられなくなる時が来るのだろう。これまで居た巣は心地良い。それが、居てる時は辛く苦しい絶望しか無いと感じていたものだったとしても。
 背の後ろにこれまでの全てを放り出す行為は、今居る場所に違和感を抱いた瞬間にこそ行うべきだろう。だが、出来る人間はごく僅かしかいない。成長を無理に拒む限り、滑稽に歪み、醜くなっていく。
 何時迄も身の丈を認めぬ欺瞞。決して叶わぬ幻の希望は事実に汚されて深く濃い闇となり、身の中で渦巻いて吐き捨てようとも、他から浸透した汚物とも混ざり、溜まり続けて濁り果てる。
 少女は、人の闇が寄り集まった電子の海を眺める度に想う。この海には、安堵を感じられる陸が無いのだと。小さな島は幾つかあるかも知れないが、その全ては小さすぎて、波を1つ2つ受けると沈んでしまうだろう。出来ては沈む螺旋上の島達。終わりない不安の海に、汚れた新たな水が益々と注がれていく。
 今まで居た場を捨てて少しばかり経った頃、犯した過ちを悔いる出来事があったがどうにもならなかった。電子の海は炎上しても画面と心を傷付けるだけだが、彼女は今、火が付けば確実に命も尽きる所に居る。
 殺人依頼掲示板で自殺の幇助を依頼した鴉夢桜魅姫は、掲示板の殺し屋・鈴鷺璃音に導かれ、これまで生きていた全てーー『表の世界』から自分の存在を消し去った。“0000“という新たな身分を手に入れた日に、支払った代価を、希望という勘違いを、罪人への死という惨たらしい結末を通して思い知った。
 ここは排他された『数字の世界』、帝鷲町(ていしゅうちょう)。
 覚悟の撤回は許されない監獄の町。

#3

3ー1

「……行ってきます」
玄関で灰色の地味なスニーカーを履きながら、黒いワンピースを着た黒髪の少女は誰にも伝わらない挨拶をする。綺麗に整理された部屋にあるローテーブルの上に並んだ丸々とした黒い鳥のぬいぐるみ達と目が合うと、無表情のまま厚いドアを開ける。
 廃アパートの共用通路に足を踏み入れ、締め切られている隣の部屋のドアを眺めながら、魅姫は踊り場を通って階段を降りる。風を受ける度に軋み音を上げる廃アパートを背にして歩いていくと、快晴の空から注ぐ眩しい太陽の光を浴びた。
 ーー5月の初めになった。
 あの恐い夜から、私の身には何も起きていない。まるで何事も無かったかのように、平凡な毎日を送っている。
『指定型殺人掲示板』の殺し屋・鈴鷺璃音の身の回りの世話をしながらだが、私は比較的自由に暮らしている。彼の部屋の管理は任せっきりにされているから掃除が出来ているし、私の部屋も家具や趣味の小物が増えてきた。
 親戚の家で幽霊のように生きていた頃は夢のままだと思っていた、自分の部屋を持つ事も容易に出来ている。廃アパートの暮らしは電気が使えないのと、お風呂が無い事以外は不便を感じない。料理や細かい家事の内容で小言を言われたり脅されたりはするが、暴力は一度も受けていない。
 ……ただ、
 4月の終わり頃から、1日1回必ず違った場所に散歩へ行けと命令されている。理由は他の彼の殆どを含めて全く分からない。
 出かける前と帰宅後の報告する間は銃を突き付けられるので、逆らう事は許されないだろう。だけど私としては実はありがたかったりする。自由に街を歩ける事で、恐い気持ちが薄れるからーー
 雲の無い空が青一色でとても美しい。初夏の風は適度な湿り気を含んで、魅姫の長い黒髪を爽やかに靡かせている。
 畑に挟まれた広い道路を延々と歩く。車が一台も通らない開放的な地に、植えられたばかりの野菜の苗が揺れ踊っている。
 コンクリートの塀に囲まれた路地裏を抜けて、開店準備中の商店街を通り過ぎる。簡素な住宅街に足を踏み入れると、小さい水筒を肩に掛けた幼児が、保護者らしき若い女性と手を繋ぎながら楽しそうに黄色い声を上げていた。
 ーー平和。その一言が、この景色に対して最良の表現になるのだろうか。
 この1ヶ月間、本当に私の生活も平和だった。衣食住は母親から送られてくるお金で十分賄っているし、璃音に対しても、部屋の掃除と家事を全て引き受けているが、それと散歩以外は何も要求されていない。彼との関係は不思議だ。誘拐犯と人質というよりは、まるで主人と召使いか別家の夫婦のよう。ーー
 頭に浮かんできた茶髪の青年の姿を掻き消し、溜息を吐いて住宅街を彷徨う。すれ違う学生達の登校風景を眺めながら宛てもなく歩いていると、程なく見えてきた三叉路を無意識に右に曲がり、また暫く歩いていく。
 足取りは重い、だが気分は良い。時間の経過とともに日差しが徐々に強くなり、空の蒼色が濃くなっていく。幾十分は歩いただろうか。隙間なく建ち並んでいた一軒家達が無くなり、視界が広くなってくると、
 足が千切れた犬の死骸が現れる。肉の断面から飛び出る黒ずんだ骨が少女の体を硬らせると、へばり付く肉片と毛が挨拶のように初夏の風にゆらゆらと靡いた。
 ーーああ、やはり呑気に構えていられない。白か黒か分からなかった疑惑を勝手に白だと思い込んで、事実はやはり黒だと知った時のショックが、私の心の中で拭えない影になっている。
 私はもう何も勘違いをしてはいけない。自分の立場を弁えろと、あの人殺しは何度も言ったんだから。ーー
周囲を見渡し屍を避けて進む。程なく現れた人気の無い小さなトンネルに吸い込まれるように入って行くと、出口を過ぎてから程なく向かい風が顔に当たった。
 斜面を片側にした道路が現れる。目の前の地面に、巨大な烏が1羽停まっている。
 不気味な黒い鳥は、自分と同じような全身真っ黒い少女を一瞥すると、巨大な翼を広げて天に舞い上がる。鳥が呼び寄せたかのような強い風が身体全体にぶつかってくると、
 生暖かさと潮の匂いが肌と鼻を刺激する。風の吹く方向を眺めてみると、敷き詰められたテトラポッドの先に海が広がっていた。

--この町に海があったんだ。--新たな発見をして少し気持ちが高揚する。リゾート地のような圧倒的な綺麗さを日本の本土のものには期待していなかったが、濃い青色をした水面に、自然の美を実感する。
泡を含んだ白い水のベールが、コンクリート塀に敷かれたテトラポッドに打ち付けられて飛沫を上げる。単調だが強い力の動きを見つめていると、細かな雑音を聴覚が受け止める。潮の音だと初めは思ったが、耳を澄ませると人の会話のように聴こえてくる。硬い音と何かを引きづる音も合わさる中、海と陸の繋ぎ目に視線を流していくと、
 砂利が敷き詰まる一角に、人の群れを見つけた。
 引き寄せられるように近付いてみると、老若男女が小さな群れを作って厚手のビニール袋を運んでいる。中に重い物が入っているようで、引きづるように移動させる人々の顔から、玉のような汗が流れている。その側には初老の筋肉質な男が1人。指揮を取っているようで、人々に向かって首からぶら下げた呼子笛を吹きつつ大声を発している。
 ぼんやりと様子を見ていた魅姫の存在に気付いた男が、険しい顔をして歩み寄ってくる。頭の先から足の先まで舐めるように見つめた後、右手を掴んで引き寄せる。
 垂れてくる相手の顔の汗が、粘り気を含んで手の甲に落ちてくる。男はもう片方の手で持っている資料らしき紙の束と肌に彫られた赤黒い4つの0の数字を見比べると、深い溜息を吐いてから少女の手を解放した。
「……リストに無いな。新しい奴か?まあここに居る全員が、その日限りの役目でしか無いが」
「?」
「バイトだろ?バイト。ッチ、面倒臭え、とにかく人手が足りねえし時間も無えんだ。突っ立ってねえで、教えてやるからさっさと作業をしろ」
 深く理解は出来なかったが、推測は容易だった。ーーどうやら袋を運んでいる人達は日雇い労働者で、男は雇い主か雇い側の監督役のようだ。
 そして自分は、新しく派遣されたアルバイトと思われている。ーー少し思考を巡らせてから、魅姫はぎこちなく笑うと、悪態を吐きながら作業場に案内する男の背に付いて行った。
 ーーこの町のことが色々と分かるかも知れない。それに身体を動かしていると気が楽になりそうだ。とにかく怖い事を考えたくない。ーー

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