Valkan Raven #2-6

  2ー6  

 孤独なカラスが声を出す。自身の身と同じ色に染まった空の中、誰とも分からぬモノへと発せられる訴えは、夜闇に溶けて瞬く間に、静寂となって消えていく。
 声を耳に受け止めた唯一の人間が、進めていた歩を止めて振り返る。荒れた息を整えながら眉間を皺で寄せると、感覚の疎くなった足で徐々に前進を再開しながら、姿無き厄介者に軽蔑の溜息で答えた。
 ――五月蝿い。やかましくうざったい鳥め、低俗で耳ざわりだ。排他に値する存在は、消えてしまえば良い。……全て。
 誰が自分を「排他」と決めた?決めたモノこそが、正しく「排他」である筈なのに。――


 ――何かある度に、時々思ってしまう事があった。この世に人間という生き物は、本当は私1人しか存在して無いのかと。私の知らない間に、いや、もしかしたら昔から、自分以外の人間は人間の皮を被った化け物に摩り替っているのではないのかと。
 妄想、妄想でしかない。しかし今、まさに今その妄想に陥っている。私以外の者も人間だと、信じる事が出来なくなっている。
 こんな気持ちになるのは、子供の頃からあった。そうなる度に、幼かった頃の私は祖母にすがりついた。幽霊のようにならないといけなかったあらゆる場所での毎日で、上辺ですら付き合えない人々の出す酸素の無い空気に窒息しそうになって、彼女に泣きついている瞬間だけ、私は自分が生きているんだと認識出来た。彼女は私の心が素直になれる居場所だった。気まぐれに泣いて怒る醜い私を受け入れてくれた。
 私の名前も、よくからかいの材料にされた。この名を授けてくれたのは祖母だが、「魅」力的な「姫」という自分の証を、祖母以外の誰にも認めて貰えなかった。
 思い出すのはいつも、小さな部屋と、抱きしめる手が感じる暖かい背中と、生ぬるい涙で濡れた頬と、嗚咽を漏らす自分の声。
 私じゃない声が聞こえた。今は幻聴でしか無い事を確信するけれど、あの時の思い出が耳の中で響く。
 大好きな、おばあちゃんの声。――
「魅姫。どうしたん?誰に苛められたん?何が辛かったん?」
 ――おばあちゃん。どうして私はこうなの?「あんたのような役立たず、引き取らなきゃ良かった」って叔母さんと叔父さんが毎日言ってくるよ。――
「魅姫。魅姫が必要だって思ってくれる人は居るよ。沢山居るよ」
 ――お父さんもお母さんも「いらない」って言ったよ。学校の子も無視して遊んでくれないよ。先生も近所の人も……。やっぱり私は誰にもいらないんだよ。――
「婆は魅姫が必要よ。それに、魅姫が自分の事何でも決めて良いんよ。誰かが勝手に決めるものじゃないよ、何だってそうよ。
 自分を、まっすぐに見ていなさい。自分に嘘は吐かなくても良いんよ。感じた気持ちを正直に、いつも信じてあげなさい」

 何も見えない漆黒の道を駆ける。素足に小石が食い込む度に感じる激しい痛みが、不安を感じる要素の1つになっている。
 霧のような影に包まれながら、胸の動悸が波打つように体全体に襲いかかってくる。挙動不振になっているのは自分でも理解していた。何処までも続く闇の中、魅姫は光を求めて走っていた。
 ――小梟山さんがあの後何かを言おうとしたけれど、私は聞こうとしなかった。嫌な想像ばかり思い浮かんで、足が遠くに行こうとしていた。口が開きかける度に彼から離れた。……逃げたとも言う。彼が口を閉ざしたのを合図に、私は正しく逃げた。
 とにかく此処から去りたかった。あの廃アパート以外に知っている場所は無いけれど、今は戻るのは嫌だった。胸の中で靄のように不快な気持ちが漂っていた。晴らす事がどうしても出来なかった。――
 靴に挟まった目玉が、頭の中で延々と自分を見つめてくる。あてのない道を痛みばかりを感じる足で走り続ける。溢れる涙が、かろうじて見える眼前の光景すらぼやけさせる。
 無意識に指が動いていた。その手の中にかつてあった携帯電話は無い。指が空気を左右に撫で、何も無い空間をしきりに叩く。聞こえてきた鳥の鳴き声に、頭の中で検索用の単語を考えていた時、
 空気が張り裂けるような、大きな音が響いた。
 魅姫は短い悲鳴を上げて立ち止まる。心臓の音が太鼓のように力強く上半身を打つ。
 化け物のような声が、闇の中で甲高く響いてくる。魅姫はしきりに首を横に振ると、壊れた振り子人形のように首を前後させる。耳を塞いでも音が鳴り止まない。動悸が酷くなっていく。
 ――怖い。――この感情ばかり抱いている。それでも足が勝手に音のした方向に動いた。自分の潜在的な好奇心が呪わしくなる。
 何も見えなかった世界が、ある1点から徐々に明らかになっていく。目の前に現れたものが自分の影だと判別出来た時、それが高い壁の一部に写っていると気付いた。
 『堀』と"彼"が呼んでいた、天まで届きそうな金属の壁。まるで暗殺者のように、夜の中に姿を溶け込ませている。
 手の平で触れた瞬間に感じた氷のような冷たさに、言いようのない不気味さを感じる。気味が悪くなりその場から引き返そうとした時、
 少女の血の気が一気に引いた。
 壁に貼り付くようにして、カラスが1羽、地に横たわっていた。

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