戯曲ディスカッションツアー〜もものみ。〜

2016-12-12ブログ再録

もものみ。


福岡の片田舎での家族劇。
戯曲ディスでは、「少人数を書くほうが絶対に楽。8人それぞれをこんなに書き分け、最後まで使い切った技術力がすごい。名前を隠しても誰の台詞か分かる。」という鈴木さんの意見に評価が集約されていた気がします。
その技術力で、戯曲ディスチームの受賞作は予想は「もものみ。」でした。


公開審査では、マキノノゾミさんの圧倒的なプッシュが印象的でした。
最後の最後まで、マキノさんは「もものみ。」一択という姿勢を貫かれていて、鴻上さんに「ここまで言われると作家冥利に尽きる」と言われていたほど!

人物の書き分けが上手い、そしてストーリーではなくあくまでも「営み」を書いている。
そして、そのただの田舎の日常は、ある種の普遍性を書ききるところまで達し、日本以外、アジアやヨーロッパに持っていっても共感が得られるのではないか、ということ。

戯曲ディスで、「その戯曲が描こうとしている範囲」「その戯曲が届く範囲」を『射程距離』という言葉で鈴木さんがおっしゃられていて、もものみ。はそういう意味では射程は広いわけでも遠いわけでもないのでは、という話が上がっていたのですが
マキノさんが「海外でも通用する普遍性」と言ったのは意外でした。
(私が、というより皆さんびっくりされていました)
射程範囲めっちゃ遠いやん!

土田さんの、直子が出ていくためのキーとなるエピソード(刺激的でなくてもいいので、なにか)があれば読みやすいのでは、という意見にたいしても、マキノさんは「エピソードがないところが逆にいい、過剰に書いてないところがいい、営みを描いたスケッチをいつまでも観ることが出来る」とべた褒め。


この作品を「豊か」と表現したマキノさんに対して解釈が少し分かれまして、坂手さんの「親がいない、親にもなれない日常の怖さ」「10年後には無くなってるであろう日々を切り取っている」という言葉が印象的でした。
そう言われると、そうなのかもなと思ったけど...
こういう、なんてこと無い日々を切り取った作品って、観た人の人生背景に寄ると私は思います。
懐かしさとともに焦燥感を感じる人は、少し切なく映るのかもですね。

また、佃さんも「大黒柱がいなくなったことによる影響力の大きさ」がこの作品のテーマなのではという意見で、大黒柱が死んだ喪失感を抱えながら、死者と一緒に暮らしている様子が明るいトーンで書かれている。それが豊かさにつながっているのでは?とのこと。
マキノさんは明るい方向から豊かさを論じてたのですが、佃さんは大きな暗い出来事から豊かさを感じていたようで面白かったです。

ただ、川村さん、鴻上さんより「長い」「読むの辛かった」という言葉があったり、冒頭でも書いた通り「ヒットがない」というところで刺激が足りなかった様子…
大した欠点もあげられずに選考に漏れたのはちょっと腑に落ちないところもありましたが…
平均的な評価は高いのに、皆さんの創作意欲には火が付けられなかったみたいです。

長い、という点に関して、確かに戯曲のページ数はほかの2倍くらいあったのですが、「ああ。」とか短い言葉で1行使ってしまっているだけで、テンポ感はかなりいいんだろうなと思ったし、笑いどころも感じ取れたのですが
確かに「読むと長い」ということでいうと、パンチの聞いたワードは入ってなかったかもしれないです。
読んでると、たしかに他の作品のほうが私もスラスラ読めたかなぁ。

あと、方言が九州地方の人と違って他地域の人はどれくらい脳内再生されるのかというのも、戯曲ディスで疑問にあがっていました。
鈴木さんは、なんとなくは分かるけど、細かい雰囲気まで感じ取れているかは自信がない、という感じでした。
多分なんとなくは伝わるんだと思うんですけどね...
方言って、それ特有の雰囲気が出せるし、もちろん味にはなるんだけど、別に優劣には関係しないんだなと改めて感じました。


マキノさんの「空間と俳優の作品だ」という評価から、卒業論文で私が「演出家の時代」と書いたことを思い出しました。
(もちろん私が当時参考にしていた文献からの引用ですが。)
岸田國士戯曲賞をいわきの「ブルーシート」が取ったという出来事について触れ、戯曲そのものではなく「いわきで上演される」という事象に価値が見出された、ということがあって書いたことなんですけど。
戯曲外の条件に強い意味がある、そしてそれは文学としてではなく演出の領分が戯曲の評価に入ってきている、ということで書いた覚えがあります。

今回、いすと校舎さんの「もものみ。」は実際の民家を劇場として上演しており、あの方言を話す役者がいて、恐らくあてがきで書かれたのであろうと思われる劇団密着型。
他の皆さんの「実際にその民家で見たらとても強く感じられると思う」というコメントがあって、そうとは分かっていてもそれは自明のことで、別段評価対象でもなんでもないんだなと思いました。


「これだけの実力があるのだから」が枕詞についての批評だっただけに…悔しいなぁ。
福岡の演劇人からも「悔しい」という声がちらほら届いています。