戯曲ディスカッションツアー〜プラヌラ〜

2016-12-12 ブログ再録

今回の審査が難航したのはこの作品のせいなのではないかと、個人的には思っています(笑)
1992年生まれ、私と同い年という若い劇作家の作品。
これに関しては個人的にも考えるところがたくさんありました。

プランクトンは固有名ではなく「流れに身を任せる」生き物の総称で、流れに逆らい、自力で生きていける生き物は「ネクトン」と呼ばれている。
多くの生き物は、小さい頃はプランクトンで、大人になるとネクトンになる。
しかし、クラゲは大人になってもプランクトンのままで、流れに身を任せて生きている。
タイトルの「プラヌラ」はプランクトンの子供のときの呼び方だそうです。

この比喩を使って、登場人物の高校生たちの「流れに逆らって自力で泳いでいけるのか」「自力で泳げないといけないのか」みたいな悩みを表現した作品でした。

戯曲ディスでは、鈴木さんの「統位性」という言葉で表現されていました。(言葉が正確かどうかについて自信がないそうですが、とりあえず使いますね)
主人公のまひろが水泳部であること、クラゲを飼っていたり、その流れでプラヌラやネクトンと言った水中生物を比喩に使ったこと、そしてその「水」の流れと社会の流れをかけ合わせ、自力で泳げるのか、泳がないといけないのか、流されていくだけなのか、というモラトリアムな高校生たちの不安や虚無感を表現していた作品。
1つのモチーフで最後まで書ききった「統一感」を、戯曲ディスでは「統位性」という言葉で表していて、それが高いということですね。

ただ、感性で一気に書ききってしまった感じがし、若い勢いは感じるしそれに魅力を感じてしまうのは作家の性だけど
技術はやっぱりまだ甘いところがある、ということでプラヌラは戯曲ディスチームでは選考落ち。

ポエティックな言葉選びは歌詞っぽさが強く、私はそういうの大好きではあるんですけど
全国学生演劇祭など学生演劇でこういった社会に対する不安や不満を描いた作品が多すぎて、
そういった「社会不安不満作品群」の中では群を抜いて面白かったのですが(理由はあとで書きますが)
逆にそのせいで、新人戯曲賞という場でどう評価されるのかが全くわからなくなってしまって(笑)

そしてその、若者が書いた若者っぽさ、をどう評価するのか、公開審査でもなんとなく別の評価軸が発生してしまっていたような気がしていました。

鴻上さんはポエティックな言葉選びがいい、「プラヌラ」という素材を見つけてきたことはとても大きい、と高評価。
23、24歳でこれを書けたのはすごい。
ただ、戯曲ディスで言ったような技術の甘さはしっかりと指摘していました。
プラヌラという面白い題材が表現しようとしていた比喩を全て長ゼリで説明してしまっていた点(言わなくても感じ取れる)、最後のけいの登場がご都合主義であり、なんでけいが現れ、助けたのかそのモチベーションがわからないという点、同級生3人組の書き分けが出来ておらず個性がない、など。

これは戯曲ディスでもあがっていた通りで、
「作者の言わせたいことを言わせるために登場人物がいるので、書き分けができていない」
「句読点の打ち方に作者の言い方の指定が見えていて、もう作者の中で言わせたいことが決まっている」(句読点の打ち方は新しい着眼点でした)
という話はしてましたけど、そのとおりでしたね。

川村さんは、「年寄りの意見かもしれないけど」と前置きしつつ、登場人物や触れられている人は同世代だけであり、
自力で泳いでいるはずの「ネクトン」が一切登場しない。お父さんお母さんはどうなのか。
ネクトンがいないのに、ネクトンになるならないを論じているのは範囲が狭すぎる、と指摘。
(これ学生演劇あるあるだと思った!)

これに対して、土田さんは「全員が地続きである良さ」と反論していました。
主人公のまひるはなんとなく引きこもりになったわけで、引きこもりになるかならないかに大きな壁がなく地続きな状況の中でみんながいきている、ネクトン、ネクトンじゃないという軸を置いていない書き方がすごいとのこと。

佃さんも、後で「確かに自分が高校生だったときって、視界に大人が入ってない。だから普通なのでは?」と。

土田さんはかなり「プラヌラ」推しで、頭の中で完成したものを表現するために「アニメになってほしい!」と言っていました。
この「アニメになってほしい」という言葉は個人的にすごく腑に落ちたポイントでした。
舞台じゃないと違和感を感じる不条理的なことが一切ないので、綺麗な色彩とともに観たほうが映える気がする…


逆手さんは、冒頭で書いた「設定が戯曲を越えられていない」というところが気になったようで、
冒頭のプラヌラの説明を受ければ、この作品を観る必要性があんまりないのでは、みたいなことを言ってました。
まぁ私もわりと読んで満足した部分はあるので、ちょっと同意。
言葉はきれいなので、ぜひ音として聞きたいなとは思ったのですが。


土田さんより、
「だいたい若い劇作家でこういう作品を書こうとすると、主人公を肯定したいとか、社会への不満をぶつけたくなるけど、この作品にはその過剰な主張がないところがすごい」というお話がありました。

作者の感情や主義主張がストレートにあらわれるとそれを伝えて、受け取ることしかできない。
この作品から「まひろは悪くない、社会が悪いんだ」ということを伝えようとしてきたら、私はきっと「人のせいにするな!」と受け取ることを拒否してしまっていたと思います。
でも、現状や心情を丁寧に描くだけだと、いろんな人がそれぞれの受け止め方や考えを持って物語にアクセスできる...というか。
「社会不安不満作品群」に飽き飽きしていた私ですが、そういうのってだいたい明確な敵や不満の相手が示されている作品ばかりだったんですね。
だからこの「プラヌラ」はストレス無く楽しめたのか...
土田さんに、理由を教えていただけました。

珈琲屋の描写は細かいのに心療内科の描写が甘いとか、そのような技術の甘さはさんざん指摘されたにもかかわらず
余りある感性と才能が評価された結果、最後の最後まで選考に残りました。
受賞作以外に序列はつかないのですが、まぁ2位という感じでしょうか。
戯曲ディスチームは、2作品あげるときにはみんなプラヌラを入れたのに、1位をあげるときには他作品にあげていて「圧倒的2位作品」だと思ってたら、公開審査では一押しの方が多かったです。