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ビリー・ザ・キッド、真実の生涯―第1章

両親、出生地、幼年時代と少年時代—8歳における後のことを窺わせるような徴候—模範的な若き紳士—寄る辺なき人々の擁護者—母親—「聖なる本質」—若き乱暴者—初めての血の味—逃亡者—故郷と母親の善導との別れ

序文から読む

この国の英雄であるウィリアム・H・ボニーは、1859年11月23日、ニューヨーク市で生まれた。

[訳注:キッドの生誕地、実名、生年月日には異説がある。まずビリーの生誕地がニュー・ヨークであり、実名がマッカーシー、もしくはマカーティーであることはビリーの死後、数週間で発行された新聞で示唆されている。またビリーの継父であるウィリアム・アントリムの証言によれば、妻の前夫、つまり、ビリーの実父の名前はマカーティーであり、マカーティーはニュー・ヨーク・シティで死んだという。他にも生誕地についてはオハイオ、イリノイ、カンザス、インディアナ、ニュー・メキシコ、ミズーリ説がある。

11月23日はアプソンの誕生日である。11月23日がキッドの誕生日である保証はどこにもない。ラス・ベガスの牢獄に収監されたキッドを訪問した新聞記者は、キッドを「24才くらい」と記録している。

他にビリーの生年月日については1859年9月17日説と11月20日説がある。まず9月17日説は以下のような証拠に基づく。

1851年6月19日、ニュー・ヨーク・シティでパトリック・マッカーシーとキャサリン・デヴァンスが結婚。

1859年9月17日、ニュー・ヨーク・シティ1区で2人の息子であるパトリック・ヘンリー・マッカーシー誕生。

1859年9月28日、セント・ピーターズ教会で受洗。

1860年、パトリックはニュー・ヨーク・シティの87 Washington Stで下宿屋を経営していたと記録される。

1863年、夫と死別したキャサリンが未亡人として記録される。

1864年、キャサリンとアントリムが出会う。

問題点:ブリジットという娘も記録に載っているが、その後、どうなったのか不明。またこのマッカシー家の記録には、ビリーの実兄であるジョゼフに関する記録がない。

ビリーの実兄とされるジョゼフ・マカーティーは自分は1854年生まれだと言っていた。確かに1854年8月24日にニュー・ヨーク病院でキャサリン・マカーティーの息子としてジョゼフ・マカーティーが生まれたという記録が残っている。父親の名前が不明なことから婚外子だと考えられる。またキャサリン・マカーティーは同姓同名が多く、他の記録ではどれがビリーの実兄を生んだキャサリンなのか確認できない。

11月20日説の詳細は以下の通りである。

1859年11月20日、70 Allen Stで1人の子供が生まれた。母親は未婚で名前はキャサリン・マカーティー。

問題点:この当時の人口調査によれば、キャサリン、ジョゼフ、ヘンリーの名前が同世帯に含まれるマカーティー家は存在しない。それにシルバー・シティにビリーが来た時に12才だったという友人たちの話に矛盾点が出る。もしシルバー・シティにビリーが来た時に12才だったなら1860年、もしくは1861年生まれでなければ辻褄が合わない。1859年11月20日に70 Allen Stで生まれた子供は後に殺人者として悪名高くなったマイケル・ヘンリー・マカーティーである可能性が高い。

1880年6月17日から19日にかけてフォート・サムナーで実施された人口調査の記録が残っている。その記録にはウィリアム・ボニーという名前がある。チャーリー・ボウディーの近隣に住んでいることからビリーのことではないかと考えられている。この記録ではウィリアム・ボニーの年齢は25才になっている。そして、生誕地はニュー・ヨーク・シティではなくミズーリになっている。職業は「牛関連の仕事」である。

ビリーの存在を証明する確実な文書が初めて示されたのは1873年3月1日である。その日、ニュー・メキシコ準州サンタ・フェのファースト・プレスビテリアン教会で母キャサリンは再婚した。その直後、一家はシルバー・シティに移った。

シルバー・シティでビリーがどのような生活を送っていたかはほとんどわかっていない。ビリーが母の死後、しばらく住んでいた家の主人を知っていた者は、「ビリーは街の中で最も善良な少年の1人でした」と回想している。また別の街の住民は「ビリーは悪い奴ではなかった」と述べている。そして、教師は「他の少年と比べて特に問題はなく、学校周りの雑用を喜んで手伝った」と証言している。「ヘンリー・マカーティー・アントリム」として知られる少年は身長5フィート5インチ(約165センチメートル)程度、青い目にブラウン、もしくはダーク・ブロンドの髪だったという。そして、母親と同じく両利きであった。この訳注はFrederick Nolan, The Lincoln County War, A Documentary History, Sunstone Press, 2009を参考にした]

19世紀のニュー・ヨーク・シティ

ビリーが非常に幼い時に死んだせいで彼の父親についてはほとんど知られておらず、ビリーも父親についてほとんど覚えていなかった。1862年、父親、母親、2人の少年—ビリーは年長であった—からなる一家は、カンザス州コフィーヴィルに移住した[訳注:1862年時点でコフィービルはまだ建設されていない]。そこに住むようになってからすぐ後、父親が亡くなり、母親は二人の少年とともにコロラド準州に移住して、 アントリムという名前の男と結婚した。アントリムは、今[訳注:1882年]でもニュー・メキシコ準州グラント郡ジョージタウンの近くに住んでいると言われ、結婚直後にニュー・メキシコ準州サンタ・フェに移住した4人家族の最後の生き残りである。その時、ビリーは4才か5才であった。

これらの事実だけが現時点までにビリーの幼年時代からついてかき集められるすべてであり、読者はそれほど関心を持たないだろう。

アントリムは、数年間、もしくはビリーが8才を迎える頃までサンタ・フェの近くにとどまった。

少年が無謀かつ大胆不敵な精神を持ちながらも寛大で優しい気持ちを示したのはここ[サンタ・フェ]であった。そうした気持ちを持つビリーは、機嫌が良い時は若い仲間達の中で最も人気者になったが、怒りの発作に襲われた時には仲間達の恐怖の対象になった。彼がカード賭博を得意とするようになり、年長者の気取った悪習を最もうまく真似ることで仲間達の中で頭角を現したのもここである。

19世紀のサンタ・フェ

この幼年期においてビリーはサンタフェで窃盗罪で有罪判決を受けたと言われているが、この街の法廷記録を精査したところ、そうした噂を確認することはできず、その後の人生においてビリーはそうした取るに足らない些細な犯罪で告発されることは決してなかったので、 そうした話は疑わしい。

1868年頃、ビリーは8才か9才になり、アントリムは再び移住して、ニュー・メキシコ準州グラント郡シルバー・シティに住居を構えた。1871年のその日から1871年まで、もしくはビリーが12才になるまで、彼の無鉄砲で破滅的な未来を窺わせるような性質は何も示さなかった。 大胆であり勇敢であり、そして、無謀であったが、気前が良くて寛大な心を持ち、率直で男らしかった。ビリーは誰からも非常に好かれ、特に年老いて動けなくなった者、若い寄る辺なき者から慕われた。彼はまさに保護者であり、擁護者であり、恩恵を施す者であり、右腕であった。ビリーが淑女、特に年長の淑女に声をかけるところは決して目撃されなかったが、服装や外見から明らかに貧しい女性には帽子を脱いで声をかけた。ビリーが支援を申し出たり、知恵を授けたりする時に、その太陽のような顔に厳しく哀れみ深く謙譲に満ちた表情が現れるのは、まるで詩のようである。ビリーが近くにいれば、小さな子供が排水溝を渡ろうとすれば必ず持ち上げてもらえたし、重たい荷物を運ぼうとすれば必ず逞しい腕で助けてもらえた。

彼の母親を知る者にとっては、礼儀正しく、親切かつ慈愛に満ちた彼の精神は別に不可解なものではなかった。母親は明らかにアイルランド系であった。彼女は夫からキャスリーンと呼ばれていた[訳注:母親の名前はキャサリン]。彼女の背丈は普通の高さで背筋が真っ直ぐのび、優雅な物腰で整った顔立ち、明るい碧い瞳、そして、豊かな金髪を持っていた。彼女は美人ではなかったが、世間が言うところのみごとな風采の女性であった。彼女はシルバー・シティで下宿屋を営んでいて、彼女の思いやりと善良な心は非常に有名であった。多くの腹を空かせた「新参者」は、彼女の家の扉の前に辿り着いた幸運を祝福する理由が十分にある。すべての態度において、彼女は疑いなく淑女—天稟と教養を持つ淑女としての性質を示した。

ビリーは母親を愛した。ビリーは地球上の誰よりも母親を愛して尊敬した。しかし、彼の家庭は彼にとって幸福な家庭ではなかった。継父の横暴や残虐さのせいで家や母の善導から遠ざけられ、自分が悪の道に走った責任はアントリムにあるとビリーはしばしば語っている。しかしながら、そうなったのはおそらく母親の死から4年かそこらであり、継父は年長の継子とずっと付き合うはめになって不幸だっただろう。

ビリーが受けられた教育の恩恵は限られたものであり、この偏狭の若者が受けられるすべての教育と同じ程度であった。ビリーは公立学校に通ったが、村の教師よりも母親の膝でより多くの知識を得た。

もともと備わった天性の知性と機転を使えばビリーはすばらしい学者になれただろう。ビリーはすばらしい字を書き、かなり優れた計算力を持っていたが、それ以上を望まなかった。

ビリーの性質の最善の輝かしい側面は上述の通りである。盾には親友達には決して見せない裏側、すなわち弱さと無力さがあった。彼の癇癪は恐ろしいものであり、不機嫌な時、彼は危険であった。彼は大きな声を出したり、威張って歩いたり、荒々しくしたりしていなかった。彼は決して威圧的ではなかった。彼は怒鳴ることはなく、もし彼がそうしたとしてもます辛辣な言葉が口から出た。彼は決して敵を作ろうとしなかったが、身体の大きさや体重に差がなく不当な扱いを受ければ、シルバー・シティの誰とでも戦っただろう。彼の困った点は、じっと鞭打たれるのに耐えられなかったことだ。戦いで敵が大きく負けそうになると、ビリーは購入したり、借りたり、請うたり、もしくは盗んだりして武器を調達して、一度ならずも殺意をもってそれらを使った。

シルバー・シティでのビリーの生活の後半において、彼はジェシー・エヴァンズといつもつるんでいた。エヴァンズはただの少年にすぎなかったが、もっと年長で乱闘の経験が豊富な男達と同じくらい大胆不敵で危険であった。エヴァンズはビリーよりも年上であり、我々の英雄[ビリー]の一種の教師役をもって自らを任じた。この2人は多くの危険な冒険、多くのぎりぎりの脱出、そして、それから数年間に起きたいくつかの血腥い乱闘をともにするように運命付けられていた。その時、彼らは放埒な友人であったが、彼らが向き合って相手の血を互いに求めるようになってどちらも戦いから引き下がれなくなる時がすぐに来た。彼らはシルバー・シティで別れたが、ビリーの短く血腥い人生の中で何度も再会した。

ジェシー・エヴァンズ

若きボニーが12才頃になった時、彼は初めてその手を人間の血で染めた。この事件は彼の人生の中で転換点になって、彼を無法者にし、悪しき衝動と激情の犠牲者にしたかもしれないと言われている。

路上でビリーの母親が無頼者の集団の前を通り過ぎた時、その中の一人の無宿人が彼女に侮辱の言葉を投げかけた。それを聞いたビリーは、考えるよりも速く、燃え上がるような目をして、ならず者の口に鋭い一撃を食らわせ、それから道に飛び出して石を拾うために屈んだ。ならず者はビリーに向かって殺到したが、ビリーがシルバー・シティのよく知られた市民であるエド・モールトンの横を通り過ぎた時、耳元に強烈な一撃を受けて倒れた。その一方でビリーは捕まえられ制止された。罰が無礼者に与えられたものの、ビリーは決して満足しなかった。復讐に燃えて彼は鉱夫の小屋に入ると、シャープス・ライフル[訳注:元込め式単発ライフル銃、1848 年にアメリカで特許が申請され、1850 年代のアメリカ軍に採用された]を手に入れて、彼の獲物を探し始めた。幸運にもモールトンが銃を持ったビリーを難なく発見して、それを返すように説得した。

この活劇から3週間後、力が非常に強く活発な男であり、自衛術に優れ、プロボクサーのような気質を持つモールトンはジョー・ダイアーの酒場で大乱闘に巻き込まれた。彼は近接戦闘を得意とする2人と戦って、両者を敵に回して最善を尽くしたが、ビリーの「大嫌いな奴」はもう1人がモールトンの「アッパー」を受けているのを見て、その隙をついてモールトンに卑怯な反撃をしようと、酒場の椅子を持ち上げて突進した。ビリーはいつもであれば街で起きるいかなる戦いであれ、関係者でなければ傍観者であろうと努めたが、今回は例外であった。彼は敵の動きを見て、稲妻のように椅子の下に1度、2度、3度と突進して、腕を振り回した後、群衆の中に飛び込み、ポケット・ナイフを右手に掴んで頭上に挙げた。ナイフの刃から血が滴り、ビリーは夜の街中に出て、人間の血によって自らを追放人、浮浪人、殺人者として洗礼を施した。彼は追放されたカイン[訳注:アダムとイブの長男で嫉妬から弟アベルを殺した]のように外に出たが、最初の殺人者[カイン]よりも幸運に恵まれていなかったとはいえ、殺害した者に対して呪いの言葉を吐かなかった。彼の手はすべての者達に対して振り上げられ、すべての者達の手は彼に振り上げられた。彼は愛する母親の思いやり、愛情、そして、善導から永遠に離れた。というのは彼は母親ともう2度と顔を合わせることがなかったからである。彼女はビリーを愛情深く支援し、ビリーは彼女を優しく、そして、尊敬を込めて愛していた。彼女の柔らかい手はもう2度と彼の顰めっ面を撫でることはなくなり、慰めの言葉は彼の膨らみつつある心を彼が宿す憤怒から守ることはもうなくなった。導く人もおらず、悪しき激情を抑えたり、彼の自暴自棄の振る舞いを制止してくれる愛もなく、彼の運命はどうなるのだろうか。

ビリーは本当に母親を愛して尊敬していて、彼の犯罪に彩られたその後の人生のすべてにおける善良な女達への深い献身と尊敬は、母親に対するビリーの尊敬から明らかに生まれている。

「[訳注:桂冠詩人アルフレッド・テニスンの叙事詩『ザ・プリンセス』からの引用]私が知る前より世界はまだ豊かな予兆に満ちていて、私は女達を愛した。彼はそうせず、堕落した生活を送り、自分を甘やかし、死よりも悪い悲しい経験を切望し、崇高な愛情を恥ずべき行為に染め続けた。しかし、私が愛したように、ずっと愛した女がいる。その者は優雅な王室の作法以外に何も学ばず、完璧どころか脆弱な欠陥でいっぱいであり、天使ではなくより親しみやすい存在だが、天国で息をして神と人間を繋ぐ天使の性質をすべて備え、すべての純真さを自分のものと見なし、踏みつけるにはあまりに大きな天球に踵を置き、すべての男達の心を軌道から揺り動かして、彼女を音楽で囲わせる。そのような母がいて彼は幸福だ。女への信頼が彼の血脈で脈打ち、万物への信頼は彼にとってたやすいことになり、遍歴を経ても彼は粘土で魂を覆い隠すことはなくなるだろう」

ああ、ビリーよ。彼の運命からあらゆる善導を引き出せる。平和の鳩と彼のような善意の人が心の中に安らげる場所を見つけられず、激情によって歪められ、命取りの復讐が彼の魂を揺るがせた時、「彼女の足紐を彼の心の紐と結んだまま[訳注:『オセロ』から少し変えて引用した言葉、『オセロ』では鳩ではなく鷹が登場する]」止まり木から声を伝える者[良心]を取り去ってしまったのだろう。彼は道を踏み外して堕落した。彼は粘土で魂を汚した。

2章に続く

最初の馬泥棒—相棒を見つける—略奪品のために3人のインディアンを殺害—アリゾナの花形ギャンブラー—トゥーソンでの愉快な生活—インディアンとの競馬—全財産を失う—窮地—フォート・ボウイの殺人とアリゾナからの逃亡—オールド・メキシコ

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