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ビリー・ザ・キッド、真実の生涯―序文

※『ビリー・ザ・キッド、真実の生涯』の説明は「はじめに—コンテンツ紹介」にまとめています。

表題

ビリー・ザ・キッド、真実の生涯—南西部の無法者にして、その大胆不敵で血塗れの行為は彼の名前をニュー・メキシコ、アリゾナ、そして、北部メキシコで恐るべきものにした

序文

さまざまな筋からの要請に応じて、「ビリー・ザ・キッド」としてよく知られているウィリアム・H・ボニーの人生、冒険、そして、悲劇的な死に関する真実の歴史についてまとめて刊行する仕事に私は取り組むことにした。ウィリアム・H・ボニーの勇敢な行為と血塗れの犯罪は、ここ数年にわたって世間の半分の人々に驚嘆の念を抱かせ、残りの半分の人々に敬意、もしくは嫌悪を抱かせた。

新聞や黄表紙の安っぽい小説で登場している多くの間違った言及を正したいと思って、多少なりともこうした労苦を担おうと思った。後者に関しては少なくとも3冊が公刊されているが、その中の一つとして、かつて生きていた無法者の歴史を伝えたものはなく、そのどれもが「ザ・キッド」に関して正しいとはまったく言えないものである。 これらは彼の名前、彼の出生地、彼の個別の経歴、彼が無法者の生活を送るに至った状況をかたり、彼が決してやっていない多くのありえない無慈悲な犯罪行為の詳細について述べ、彼が決して訪れていない場所について述べている。

私は、自分達の行為を彼のせいにしようとするさもしい悪党どもの記憶と「ザ・キッド」の記憶を分離するつもりである。彼の性質について私は公正に判断するように努め、彼が持っていたすべての道徳心について—すなわち、彼は決して道徳心に欠けていたわけではないと認めるが、彼が人間性と法律に対して犯した憎むべき違反行為について汚名を免れることはできないだろう。

私は、「リンカン郡戦争」として知られる争いが続いていた時から彼の死の瞬間までキッドを個人的に知っていた。不幸にも私は公務を果たすうえで彼に死をもたらした。私は、ビリーの幼い頃から近年に至る人生のばらばらの出来事の事実関係について荒野の道のキャンプ・ファイヤーやさまざまな広場で聞き取りをおこなった。正しい情報を集めるにあたって、私は「ザ・キッド」の死以来、多くの人物にインタビューした。 インタビューの対象者は、彼と親密であった者、彼が自分のことについて自由に話していた相手であり、そして、1873年にニュー・メキシコのシルバー・シティにあった「ザ・キッド」の母の家の下宿人であった友人と私は日々話している。この男はその当時から彼の死までボニーのことを知っていて、丹念に注意深く彼の経歴を追っている。私は、彼の人生の空白期間を補うために、そして、誇張や弁解なしで主要な興味深い出来事の真実にして簡明な事実関係を読者が私の小さな本で確実に見つけられるようにするために、ニュー・ヨーク、カンザス、コロラド、ニュー・メキシコ、アリゾナ、テキサス、チワワ[訳注:メキシコ北部の州]、ソノラ[訳注:メキシコ北西部の州]、その他のメキシコの州のさまざまな信頼できる人々と手紙を交わした。

私は文学的才能があるふりをしようとは思わないが、教養ある英語を使って、上辺だけの言葉で修飾されておらず「ありのままのを飾られていない話」を人々に伝えたいと思っている。若きボニーの生涯における真実を語れば、心臓を高鳴らせて動悸を鎮まらないようにするためにペンをわざわざ血に浸す必要はない。「ザ・キッド」という変名の下、彼の最も血腥く無法な行為がおこなわれた。その名前は、ディック・ターピン[訳注:ロンドン近郊に出没した伝説的な強盗、愛馬のブラック・ベスとともに多くの伝説や俗謡のもとになった]やクロード・デュヴァル[訳注:ノルマンディー生まれでロンドン周辺で活躍した侠盗]と同様に大胆不敵な犯罪の年代記にずっと留められて記憶され続けるだろう。これらの二人を不滅の存在とするために、十数人の著者—その売り物はすばらしい想像力である—があらん限りの想像力を使って数多くの作品を書いてきた。この「ザ・キッド」の確かな歴史は、誇張を剥ぎ取り、彼を伝説的な記録を持つ山賊達と肩を並べる存在とし、大胆不敵な勇気、危機における心の在り方、仲間達への献身、敵に対する慈悲、慇懃さ、信仰に訴えるようなすべての要素において彼を匹敵する者がない存在にする。その一方、虐殺のありありとした情景を楽しむ者は、病的な食欲が満たされるまで、作り事や虚構なしで血腥い争いや死に至る衝突を味わうことになるだろう。

冗長だという批判を受けるかもしれないが、私はこの人々への訴えかけに二、三言だけ付け加えたい。(他の多くの説教の中でも)東部の街で有名な聖職者によって最近、おこなわれた説教を見ればわかるように、それは正式な書面によるものではなかったにしろ、「ザ・キッド」についてありのままを述べている。

私は読者にセンセーショナルな小説を提示しようとは思わないが、 罪深い若者に対する神の復讐の一例として「ザ・キッド」を説教で取り上げる日曜学校はきっとないだろう。 事実、彼は嘘をつき、悪態をつき、ギャンブルをして、子供時代に安息日を破っているが、若々しく元気な性質が子供心に宿っただけである。しかし、彼は、雄々しく生きて栄誉と尊厳がある死を迎えた数千の先駆者達に倣った。そうした者達が、ある者は人々のために、ある者は内なる道徳心のために、ある者はその優れた知性のために、そして、より多くの者はその富のために、どのように世間で名を成したのか言うまでもない。「ザ・キッド」の犯罪は、悪辣な性質によるものではなく、若気の至りを抑制できずに引き起こされた。それは、大胆かつ無謀、荒々しく、そして、何者にも支配されない精神、すなわち、いかなる物理的な力でも抑えられず、いかなる危険も顧みず、そして、死を除いていかなる力も征服し得ない精神に基づいて行動した不都合で不幸な状況の結果であった。

[聖職者の]説教で示された[ビリーに関する]見解は、コネティカットのブルー法[訳注:18 世紀にニュー・イングランドで施行されていた厳格な法律]のように言葉も感覚も単調な議論も時代遅れである。安息日を破ることは、「ザ・キッド」が殺人者や強盗になって血塗れの死を迎えた唯一にして必然的な原因なのだろうか。魂の指導者を清めよ。ここフロンティアで「ザ・キッド」は、たまたま知ることがなければ日曜日がいつ来たかなど決して知らなかったし、模範的な若者だという評判を享受できる他の多くの若者達と同じように日曜日について知る機会はなかった。そして、「ザ・キッド」はわざと安息日を破ったのだろうか。隣人のトウモロコシ畑を襲撃して炙った穂軸を奪う代わりに牛の群れを盗むだけにとどめたのは、キリストとその弟子の奇跡と同じだというのか。

「ザ・キッド」は隠れた悪魔をその身に飼っている。状況に応じて陽気で愉快な小悪魔、もしくは残虐で血に飢えた悪鬼になった。残念なことに状況は天使に味方し、「ザ・キッド」は倒れた。

十数人の証人が私の作品が真実であると証明しようと、出版に助力を申し出てくれた。私はそれらを感謝とともにすべて断った。疑う者には疑わせておけばよい。

パット・F・ギャレット

※ビリー・ザ・キッドの人生に関する概要は「ビリー・ザ・キッドと西部」としてまとめています。同じものがBOOTHでも購入できます。

「ビリー・ザ・キッドと西部」は私が音声で解説したものもあります。誰でも視聴可能です。

1章に続く

両親、出生地、幼年時代と少年時代—8歳における後のことを窺わせるような徴候—模範的な若き紳士—寄る辺なき人々の擁護者—母親—「聖なる本質」—若き乱暴者—初めての血の味—逃亡者—故郷と母親の善導との別れ

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