二種類の知性

 よく言われている話だけれど、知性は大きく二種類に分けることができる。

 一つ目は結晶性知性。いわゆる頭でっかち。学校の勉強で身につくもの。計算練習をガリガリこなしたり、英単語をチビチビと覚えていく中で、少しずつ蓄積されていくもの。

 もう一つは流動性知性。いわゆる直観。芸術性がある。これは努力によって身に着けることが難しい。

 そしてどうやらこの二者は、基本的にトレードオフの関係にあるらしい。「あちらを立てればこちらが立たず」というような。

 僕は明らかに結晶性知性の方に寄っていると思う。そのことについて書く。

 実のところ、僕は計算練習や、英単語暗記がそれほど苦にならない。それどころか——これが、僕を東大生にした最大の要因なのかもしれないけれど——地道な”ちびちび系努力”を繰り返していると、不安が和らいでいく。つまり、僕にとって、地道&コツコツとした努力は「不安神経症的な反復行為」としての側面が、間違いなくある。

 何十分も手を洗い続ける人。
 マンホールを見かけるたびに、その上を三度跨がないと気が済まない人。
 石碑を見かけるたびに文字の溝をなぞってしまう人、、、

 いろんなパターンがあるけれど、その中に「ガリガリ計算をやってしまう」とか「英単語をちびちびと覚えてしまう」というものもある。

 それが僕にとっての地道な努力で、やっていると不安が和らいでいく。だから、”頑張っている”とか、”きつい”という感じはあまりない。(全くないわけではない。そりゃ、手を洗い続けている人だって苦しみながら洗い続けているもの。)

 そんなわけで、僕はやっぱり、やらずにいられないからコツコツ系の努力を反復するのだし、小説だって書く。そんなことをやりながら、心のどこかで、「ほどほどにしなきゃダメだ」とささやく声がする。それでも、なかなか止める事ができない。(止めたら不安に押し潰される)

 だからせめて、進む方向をいい具合に調整しなきゃ、と思うわけです。あわよくば、誰かの役に立てることができないだろうか、、、(まぁ、こういう不安神経症的な親切=お節介は、相手の迷惑になってしまうことの方がずっと多いんですけどね^^;)

 その一方で、流動性知性の高い人を見ると、僕はつい、彼ら(彼女ら)を羨んでしまうわけです。素直に「いいなぁ」と思います。あの人たちは、僕が何年もかけて、やっと分かりかけてきた物事の本質を直観的に掴んでいる。(少なくともそんな感じがする。)

 それでも、彼ら(彼女ら)は、どこか切羽詰まっているように見えることがある。

 喩えるなら、こんな感じです。

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 僕はレンガを積み上げて山を作っている。できれば平べったい古墳みたいなやつじゃなくて、ピラミッドみたいな高いものを作りたい。それなりに大変だけれど、体を動かしていると心が落ち着く。

 ふと見上げると、はるか高い空を飛んでいる鳥がいる。僕はため息をつく。
「そこから何が見える?」と僕は鳥に話しかける。
「ここまでくれば分かる」と鳥は応える。
「ずるいねぇ」と僕は言う。「君は、レンガを積み上げることなく、そんな高いところにひとっ飛びなんだから」
「わかってないね」と鳥は言う。
「こうやって羽ばたき続けているってのも疲れるんだよ。地面が欲しいね」
「君もレンガを積み上げていけばいい。その高さまでね」
「いやいや、この体はね、空を飛ぶのには向いているけれど、レンガを積むのには向いていないんだよ」

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 最後に、谷川俊太郎の『暗い翼』という詩を引用しておこうと思います。僕の下手なたとえ話よりも、ずっと美しく流動性知性の何たるかを語ってくれています。(そんな風に僕は読んでいます。)

空が降下してくる
厚い幕のむこうに無数の星の気配がする
大きな法則が
泣いているのを僕は聞く

月は誹謗され
雲も話さない

空とそして土の匂い
われわれのすべての匂いだ
しかしわれわれは
果たして自分の立場を知っているだろうか

空が醜くなってくる
樹や蛙は誰かを憎んでいるらしい

神々が人間に疲労して
機械に代りをさせているのを僕は聞く

時間はガラスの破片だ
そして
空間はもう失われた

今夜 僕は暗い翼をもつ
すべての本質的な問題について知るために

(『暗い翼』二十億光年の孤独 集英社文庫より)

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