正義——傷口から入り込んで、人を操る——

※全体を通して、『ジョジョの奇妙な冒険 part3』を引き合いに書いていますが、この漫画を読んだことのない人にも分かっていただけるように書いたつもりです。

 『ジョジョの奇妙な冒険』に出てくるスタンドと呼ばれる特殊能力は、その操り手の精神の具現である、らしい。

 その観点からキャラクターを考えるというのが、数あるジョジョの楽しみ方の一つであるらしい。さっそく僕も、特に興味深いと思ったスタンドについて、解釈を書いてみようと思う。

(※ただし僕の趣向はひねくれているので悪しからず)

 細かい説明は省くけれど、僕が気になったのはエンヤ婆の「正義(ジャスティス)」。これは、いい意味での「正義」ではない。悪い意味で、「正義」に狂っている人の掲げる偏狭な「正義」である。この記事の後半では、これら二者の違いについても考えてみる。(自分を棚に上げることになるけれど。)

 これから、悪い意味での「正義」について、考えてみる。読者の方々も、悪い意味で「正義」に取り憑かれてしまっている人たちの具体例を思い浮かべながら、この記事を読んでいただけますと意味が分かりやすいかと思います。

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 エンヤ婆の「正義」は不気味だ。その不気味さは、現実世界での「正義」の不気味さにも当てはまる。

 まず、「正義」が入り込むには、「傷」が必要だ。「正義」それ自体で傷をつけることはできない。正義に狂った人が、他者を傷つけることはよくあるけれど。(たしかに、正義はそういうもの)

 しかし、いったん、何かの加減で傷をつけてしまいさえすれば、そこから内部に進入し、穴を空け、その穴でもって人々を牽引し、支配することができるようになる。それも、かなり多くの人間を動員することが可能だ。

荒木飛呂彦 『ジョジョの奇妙な冒険』 part3 スターダストクルセイダース 正義 その3 より

 そうやって支配された人々の生きる街では、「人の死」ですら軽く扱われるようになるし、「正義」に支配され続けた人々は、やがてゾンビ——自らの思考を失い、ただ引き摺り回されるだけの骸(むくろ)——になる。

荒木飛呂彦 『ジョジョの奇妙な冒険』 part3 スターダストクルセイダース 正義 その2 より

 世の中を見渡してみると、こんなふうに、ちょっとした傷から正義に取り憑かれて、操り人形になって、ゾンビになってしまっているように思える人がちょくちょくいらっしゃる。自分が「正義」を唱えるとき、そうした釣り出しにあってしまっていないか、立ち止まって考えなくてはいけない。どんな物事にも必ず負の側面があるけれど、それを忘れてしまった「正義」は、極めて悪辣なものになりうる。

 これはオモテの方のアカウントで一年半前に書いた記事なのだけれど、僕はやっぱり「傷」がついている人間だから、「正義」に付け込まれやすい。気をつけていないといけない。(中学から高校時代にかけて、僕は狂ったようにボランティアをしていたという履歴がある。)

 あらためて金子光晴の詩をひいてみる。

遂にこの寂しい精神のうぶすなたちが、戦争をもってきたんだ。
君達のせゐじゃない。僕のせゐでは勿論ない。みんな寂しさがなせるわざなんだ。

寂しさが銃をかつがせ、寂しさの釣出しにあって、旗のなびく方へ、
母や妻をふりすててまで出発したのだ。
かざり職人も、洗濯屋も、手代たちも、学生も、
風にそよぐ民くさになって。

誰も彼も、区別はない。死ねばいゝと教へられたのだ。
ちんぴらで、小心で、好人物な人人は、「天皇」の名で、目先まっくらになって、腕白のようによろこびさわいで出ていった。

金子光晴『寂しさの歌』

 冒頭に述べたことだけれど、こうした悪い意味での「正義」と、内から湧き上がってくる「正義」——ジョジョを読む人は、それを「黄金の精神」と呼ぶらしい——は、やはり、区別せねばならない。

 自分の思う「正義」が、本当に自分の内部から湧き上がってきたものなのか、それとも、どこかについた傷から入り込んできて、僕を操ろうとしている「正義」なのか、、、

 また、こういうふうにも思う。

 もし、「正義」に悪い意味で取り憑かれてしまっている人がいたら、その人の傷口を探り当てて、そこから解放してあげることができるのかもしれない、と。でも、こんなことを実際に行うのは難しいのかな。

 ちなみに、ジョジョの奇妙な冒険の中では、こうした「正義」を、主人公の空条承太郎のスタンドであるスタープラチナが吸い込むことで退治している。(余すことなく、全てを吸い込む。そんなのありかい笑)
 そんな離れ業は、僕には参考にならないけど笑、どこかにできる人がいるのかもしれない。あ、一流の漫画家にならできるのかな。

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