「ハンドクリーム」(小道具掌編集)

 彩香はトイレの後にロッカールームへ直行した。自分のロッカーから取り出した150グラム缶のミスト化粧水を顔に振りまき、洗ったばかりの手のひらで化粧の上から馴染ませる。霧状のうるおいに、少し気分が上向いた気がした。
 ついで制服のポケットからリップクリームを取り出す。体温でぬくもって、唇になじみやすい。
 最後に、ハンドクリームのチューブを取り出す。友人からのもらい物で、手指の保護にはじゅうぶん力を発揮してくれるものの、外国製でやや匂いが強いためデスクで使うのは遠慮している。
 両手を口元の高さまで上げて、両手を絶えずすり合わせて、クリームの甘い匂いをかぎながらつかの間ぼんやりする立ちっぱなしの小休止。
 クリームを爪の際まですり込んでいると、指先が硬く小さな感触に引っかかる。――ささくれだ、と彩香は指を広げてまじまじ見つめた。乾燥がちなこの時期は目立つ、と眉をひそめる。帰ったら処置しよう。
 セルフケアもいいけれど、と彩香は首を回してため息をついた。ネイルサロンに行きたい。彩香は営業職なので華美なネイルはできないが、素爪のケアは許容範囲内だ。そしてそれはプロに頼みたい。数千円で収まる気分転換。
 スマートフォンを取り出し、予約サイトにアクセスするも。行きつけのサロンは、就業後の時間も土日も当面予約がいっぱいだった。……仕方ない。切り替えるように軽く頭を振る。
 ハンドクリームの油分でぺたぺたする手を最後にぎゅっとすり合わせて、ロッカーを閉める。休憩、終わり。

 彩香は帰宅して食事を終えると、100均ショップで買える刃先がカーブした眉毛カット用のハサミを持ち出すのが恒例になった。片づけたばかりのダイニングテーブルに腰かけ、ぐっと身を屈める。
「よく切らないねえ」
 食器洗いでキッチンに立っていた誠司が、彩香の様子を眺めながらコメントする。慣れてるから、と手短に答えた彩香は、手元に集中し始めた。ハサミの尖った刃をそっと爪の付け根に当てて、ささくれをなるべく根元で切る。しぶといものは毛抜きも使う。ややもすると大出血の憂き目を見るので、ひたすら慎重に、だ。
 ささくれの処置が終わると。ハンドクリームを念入りに塗りながら、肩凝る、と彩香はぼやく。ささくれが出来ては切って、出来ては切って、を繰り返している。乾燥激しい冬の恒例だから仕方ないにせよ。
 食器洗いを終えた誠司も、手を拭きながら自分の指先を見つめる。
「僕もいくつかささくれできてるよ」
「切っときな。化膿すると治りが悪くなるよ」
「……僕は目が悪いからそのちいちゃいハサミはちょっとなあ」
 微妙な沈黙が落ちて。やや薄目になった彩香が、仕方なく顎をしゃくるようにして向かいの席に誠司を促す。にっこり笑った誠司が歩み寄り、示された椅子に座った。
「本当はプロにやってもらった方がいいんだけど。……三か所もできてる」
「自然治癒に任せてた。むいたりとか」
 聞いてるだけで痛い、としかめ面で彩香がぼやきながら誠司の手を導く。前屈みになって、いっそう注意深く誠司の指先にハサミの刃を向ける。ぱちり、ぱちり。
 息を詰めるほどに、どうかすると自分の時よりも集中していた彩香が、ふいに身を起こして大きく息をついた。
「……毛抜きは怖い」
 出血が怖い、と重ねる彩香に、いいよ、と誠司が受け止める。
「切るだけで、だいぶ気にならなくなった」
 ありがとう、と誠司が柔らかに告げて引っ込めようとした手に手を置いたまま、彩香が微妙な力をかけてそれをとどめる。ちょっと待った、というように。誠司はきょとんとする。
 彩香は全く自然な手つきで、自分が使っていたハンドクリームのチューブを引き寄せた。そして何も言わず誠司の手の甲にクリームを数センチ絞り出す。そしてその流れで、自らの手で誠司の指先にそれを広げ始めた。思わぬ手ずからに、誠司がひそかに彩香を窺う。
 互いの体温ですぐに柔らかくなり、甘く香りを立ちのぼらせるクリームを、特にささくれを切ったばかりの爪の際に丹念に塗り込む。彩香が淡々とかつ熱心にそうするので、誠司はされるがままだった。撫でて、さすって、押し揉んで。指を絡め、時には握り込んで。
 互いの手がつやつやと光る頃、やっと気が済んだように彩香が手を離すと。
「――いいね」
 えらく生真面目な調子で誠司がコメントする。
「は?」
「すごくいい」
「……何が?」
「スキンシップが不足した時とか、これはとてもいいんじゃないかな」
 すきんしっぷ。鸚鵡返ししかけて、彩香はやっと気づいたようだ。何も、処置後の保湿ぐらい誠司自身でもできうるという事実に。まるで幼い子供の面倒を見るように丹念に手をかけてしまった、――甘やかしてしまった、と彩香がばつの悪そうな顔をする。全くの無意識だったので、いっそう居た堪れない。
 そんな彩香の様子を承知の上かどうか、いい匂い、と握りこぶしを鼻先に持ってきて吸い込んだ誠司が満足げに呟く。以降、誠司はささくれができるたび、いけしゃあしゃあと彩香の前に手を差し出すのだった。ねえまたあれやって、と。

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