「ネイルオイル」(小道具掌編集)

 年の瀬の忙しい中、彩香はやっと行きつけのネイルサロンに行ってきた。といって華美な装飾は許されない職場柄、選べるメニューはハンドケア一択だ。それでも、きれいにファイリングされ磨き上げられた爪先を見るだけでも気分が違う。
 治したばかりの歯は一生懸命磨くように、ケアされた手先もなるべく大事にしたい。手洗いのたびに友人からのもらい物である高級なハンドクリームをせっせと塗り込んでいたら、当然だがチューブがだいぶ細くなってきた。似たようなブランドを買ってこようかなと思案していた矢先、誠司が「はいこれ」と小さなショップバッグを差し出してきた。
「なに」
「開けてみて」
 指一本ほどの大きさの筒状のパッケージを開けると、更に一回り小さなボトルが出てきた。中で蜜色のオイルがゆらりと揺れる。
「ネイルオイル」
 手入れに使って、とにこやかに誠司が言う。
「……ありがとう」
 よく見てるな、という驚きが少し、品の良いパッケージがいかにも高級そうだなとちょっとした気後れしたのが少しで、彩香の声はやや小さい。
「お礼しないとな」
「お礼はいいから、使ってるとこ見せて」
 あーやが身づくろいしてるとこ、好きだ。屈託なく言って笑う誠司に、彩香は面映ゆさで顎が引けた。

 代わる代わる入浴したあと。ソファに二人腰かけて、お風呂上りでいっそうしっとりする手を広げた彩香がネイルオイルを開封した。ロールオン式のボトルを逆さにして、爪先にくるくるすべらせていく。
「ねえ、匂いかいでみて」
 十本の爪にオイルを行き渡らせると、ふいに誠司が言う。匂い? と鸚鵡返しした彩香が、指を折り曲げた両手を鼻先に近づけると。
「あーや、ぶりっこ~」
「――懐かしいからかい方をするな。……バニラの匂いだ」
「好きだろうなと思って」
「そんな話したっけ?」
「彩香、香水もバニラの使ってるだろ」
 当然のように言われて、彩香は微妙な表情で口を噤んだ。こういうところが、なんというか。わざわざ言って聞かせた覚えもないのに、ハンドクリームを使い切りそうなのを見計らってネイルオイルを買うだとか、それをきちんと好みの香りに近づけてくるだとか。――目ざとすぎる。
 それは気が利くとか、観察力に長けるとも言い替えが可能で、その特性が彼の営業職(彩香と同じ)に大いに資していることは理解しているが、たまに居心地がよすぎる。過ぎたるは猶及ばざるが如し、だ。贅沢な話とは承知の上だが。
「……ね、彩香」
 組み合わせた手でオイルを爪先に塗り込んでいると、内緒話をするような声に呼ばれた。聞いた彩香は、手を止めて何とも言えない顔で誠司を見返す。誠司はにこにこしたものだ。
 それはきまって誠司が、ねだりごとをする時に出す声だ。ねだる内容は決まっている。
 彩香が、大いに仕方ないな、という顔をすると。身じろいで、隣の誠司の膝の上にすとんと横向きに乗った。このいわゆる「膝抱っこ」を時どきしたがっては、誠司は臆面もなくねだってくる。彩香も女性としてはあまり小柄な方ではないので重いだろうと気がかりでならないのだが、誠司は一向に構った風もない。
 腰に添えた手で彩香を支えながら、続きをどうぞと目線で誠司が促す。彩香はあたたかい「椅子」の上、無心のふりでひたすら爪の周りを撫でてさすってオイルを馴染ませる。体温を接したまま、ほのかに立ちのぼるバニラの香りも、低めた呼吸も伝わる距離で。
 オイルがすっかり爪にも皮膚にも浸透して、手持ち無沙汰になる頃。うるうるとつやめく指先を誠司に取られて、やがて折り重なる手。男の指先が、ゆっくり爪の上を撫でる。
「つるつるだね」
 ずっと触ってたい、と無邪気なことを静かに言う。愛撫にも似た触れ方に正体のわからないため息がこみ上げてきて、彩香はつりこまれたように間近にある眼鏡越しの瞳を睨みつける。気づいて見返すまなかいから、そっと眼鏡を奪い去った。


「――ああそうだ。それ、リップバームにもなるんだって」
 キスの後に思い出したように言うなこっぱずかしいだろ。思わず八つ当たりのように彩香に胸板を叩かれて、誠司はただだただきょとんとした。

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