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できすぎくん の つらみ

「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰がわたしを救ってくれるでしょうか」。(ローマの信徒への手紙7章24節)

誰が救ってくれるの?〜自分の努力でという社会の中で、この箇所から、さらにマタイによる福音書25章にある「タラントンのたとえ」と対話させながら考えてみました。原資を用いて立派に稼いでご報告、そう言うことがよしとされることでいいのだろうか?それが今回の問いかけです。できすぎくん、うんうん、これは「ドラえもん」に登場するキャラクターのことです。できすぎくんをちょこっとキリスト教哲学してみよう。

誰がわたしを救ってくれるのか

 パウロは相当に苦しんでいます。超えられない壁がある!誰かどうにかして!この「罪」というのに占領された体に自分は閉じ込められている、このままでは生きたことにならない!と呻いているようにも聞こえます。そんなの自分の体の中で起こっていることなのだから自分で罪とやらを退治できるように、信仰を強くもてばいい〜これが、律法が指し示す方向だったのです。それだけではないでしょう。現代日本のキリスト教神学も、その律法が指し示す方向に引き寄せられているように、わたしには感じられるのです。信仰が強いと言うことが、まるで日常生活習慣のありようを規制することができる「強い意志」と取り違えられているのです。
 このような強さを志向するあり用がもたらすのは、自己責任の追求です。閉じ込められている原因はお前にあるのだ!と。しかしパウロは「誰がわたしを救ってくれるでしょうか」と言っています。自分がなんとかすることにとどまらないで、誰かの必要性を訴えているのです。パウロの主張は、自助努力、自己責任では、死に定められたこの体を打ち破ることはできないということです。自分の力ではどうすることもできないことが律法を通してわかることだとパウロは考えたのでしょう。この箇所は人間の個人的な生活習慣のことのように受け止められてしまいます。肉の人、とか文字通りに「内なる人」というような表現で、個々人がどんな生活をしているのかという内向きな信仰理解へと巻き取られてきました。しかし、この言葉はパウロが意図したこと以上の意味をもたらします。少なくとも、パウロは共同体に対してこの手紙を送っています。特定の誰か一人の生活状況を問題にしているわけではありません。読んでいる個人の私的な話でなくて、共同体の問題としても、「誰が救ってくれるのか」という言葉に留まって考える必要があります。

儲けてほめられることと、非力さ

パウロが生きた時代とその地域でも、ものすごいスピードで都市開発がなされていました。それと関連づけて考えなければなりませんが、戦争が続いていました。この開発、高く、経済的に豊かにという追い込みは、異質性を監視し、吐き出す力になりました。より弱い人を弱く、より持っている人が持っている時代だったのです。

『持っている人はさらに与えられて豊かになる。持っていない人は持っているものまでも取り上げられる』

マタイ25:29

 イエスのたとえの言葉が響きます。これが本当に神の国でいいの?そんな問いを持ってイエスはタラントンのたとえを語ったとわたしは思います。

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