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わかっているからこその沈黙

いよいよ直接衝突!どうなるイエス?!

イエスは、群衆からの大歓迎を受けて、エルサレムへやってきましたが、その日の夕方にはベタニアへ出ていきました(マルコ11:11)。その翌日、エルサレムへやってきたイエスはまたしても都の外へと出ていきます(マルコ11:19)。イエスはエルサレムに来ては、外へ、とエルサレムに滞在することをあたかも避けているかのようです。
なぜイエスはエルサレムでは宿泊しないのでしょうか?いわば本丸にてイエスの宣教を発揮するべきステージとも言える場所ではイエスは何もせず、三日をかけて通っています。まるで、この三日は、イエスがのちに墓に葬られている間を指しているかのようです。そして三度目のエルサレム来訪です。いよいよ、イエスと論敵であるものたちとの直接衝突が始まります。

一行はまたエルサレムに来た。イエスが神殿の境内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちがやって来て、言った。「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」 イエスは言われた。「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。しかし、『人からのものだ』と言えば……。」彼らは群衆が怖かった。皆が、ヨハネは本当に預言者だと思っていたからである。そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」

日本聖書協会 『聖書 新共同訳』(マルコによる福音書11章27~33節)

何の権威で?

このようなこと、そのような…と指示代名詞が続き、それって一体なんだ?と思いませんか。周知のことというマルコの言い回しは、このようなこと、そのような…があからさまになった時のリスクを言い表しているかのようです。ここで問題にされているのは、イエスが行っていることは「何の権威によるのか」です。そしてイエスが誰の権威を代行しているのか?が問われています。この問いの中にはすでに「まさか、神の権威によって」なんて言えないでしょうよ、という含みがあると思います。もしそんなことを言おうものなら、たちまち神を冒涜する者と指摘できるのに、そんな画策があることが見え隠れしています。権威はパワー、支配力、制御する力を指します。国の権威は民主国家であっても為政者に託されます。地方自治体であれば地方議会に、学校では学校長や、教職員に、権威が付与されています。権威者は、規則を定め、規則違反者への懲罰を実行できます。これが、権威がもともと意味していたことです。

イエスの活動によって、敵対者たちがこれまで権威と認めていたものとは異なる権威があることが明らかになりました。これを、論敵者らは問います。イエスが癒し、起こし、分けて与え、教えることについて、一体それがどこから来るのか?という問いは、私も聞きたいことです。一体なぜ、あんなこと、こんなこと、をなぜやるのか?危ないよ、そんなこと、と思うのです。だからこそ、イエス自身から聴きたいところです。
教会では、それは「神は愛」だから、イエスは神の愛の行いを実践しているという答えありき、で読みますが、でもそうなの?本当にあなたは何の権威によって、あんなこと、こんなことをするの?と聴いてみたい私の欲望を、論敵者たちが見事に叶えます。自分たちの慣例や大切にしていることが非難されているようで、腹立たしくもあり、同時に、「なぜそこまでやれるんだ?」という一周まわった「興味」もあったのではないでしょうか。
ただ、ちょっぴり、彼らの問いは、イエスにとっては不都合な、トリックでもありますが。しかし、これが男性指導者たちからだけの問いであるというところには私は立ち止まりたいのです。ほんと、もう面子が潰されて腹立たしいということと、どっちが本物?みたいなやりとりを繰り返しているのを見るとうんざりです。正直、内心わかってるんだったら、とっとと、「いや、これはすごい」と表現できればいいのに。

人権を取り戻すバプテスマ

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