見出し画像

二つの忍耐の先にある新生

新しい年に神の恵みが豊かにあるように心から祈ります。新しい年の志をお持ちですか?前向きな気持ちになろうとしても、「そんな状況じゃない」と思う人がいることを、知っているでしょうか。現実は、カレンダーをかけかえるほど簡単ではありません。今日は、昨日との連続で、今朝になっても、なお、心配ごとに身を置かざるを得ない人がいるのです。
そういう陰気なことに立ち止まらずに、とりあえず「おめでとう」。これが礼儀と言われるかもしれません。
 しかし、自分の気持ちは相手の気持ちと同じではありません。ちょっとだけ立ち止まることも大切だと思います。それが、自分も大切にすることだと思います。自分がちょっと待って、と思っている時にも、それは無かったことにされて、儀礼的なあいさつで心の中にあることを無かったことにすることが続いたら、どんどん心が重くなります。おめでとうを無理くり言わねばならないことへ巻き込まれる前に「ちょっと待って、私のためにも足を止めてください」って言っても大丈夫な人間関係がありますか?そんな間柄が欲しいなあと思います。慣例を超えた親密さです。そして、おめでとうと言わねばならない節目に、それが難しい状況にある人には心を込めて、あなたに神の愛が包み、変化が訪れますように、と言い合えるのが教会であったらいいなと思いますが、皆さんはどう思われますか。改めて、今年もよろしくお願いします。

「今年の漢字」を念頭に

巻頭言冒頭に、「今年の漢字」についての一考を記しました。

「今年の漢字」は、1995年12月12日(漢字の日)から始まった日本漢字能力検定協会のキャンペーンの一つだそうです。年末に一年を振り返り文字が選ばれることと、キリスト教信仰の精神性は異なります。「今年はこうだった」と総括し、呼ぶ、という行いは、第三者性が高いものです。過去から離れていく時に、これは〇〇だったとの名づけが行われます。一方、キリスト教の「自覚的信仰」は、深い黙想の中でこれからの志、幻が与えられそこに向かって歩き出す要素を含んでいると思います。今年の当事者性が高いと言えるのではないでしょうか。

2023年1月1日 駒込平和教会 週報 巻頭言 冒頭より 

このように、私は、「今年の漢字」は、過去を振り返って決めるのではなく、年の初めに考えるのが、キリスト教の時間の捉え方に近い実践ではないかなと思います。
昨年までの一年を象徴する言葉が、「戦」だったと知り、なおその思いを強くしています。「戦」ではない方向へいこうと言う気持ちを持っていたら、昨年はどうだっただろうかと想像したのです。誰が、この一年を「戦」の一年にしたいと思い、去年の1月1日を過ごしたでしょうか。
ちょうど一年前、ミャンマーを覚える祈り会では、戦いが終わることを祈っていました。「今年で、これは終わる」「終わらせなければ」と信じて、新年にも祈ったのです。でも、そうはなりませんでした。
先週、私が読んだ記事(12月27日)ミャンマーのカトリック教会内で爆発が起こり、怪我人が複数出ているニュースでした。一年前に立てた志は達成されませんでした。一体、いつまで、耐えていけるのだろう?そう思います。どこまで忍耐させられるの?と言わざるを得ない状況に追い込まれている人々を身近に知ると、今年の漢字は、「今年こそは」と言う希望が膨らむものになると思います。私が今でも、諦めない、諦められないと思うのは、忍耐は、決して見捨てられないという確信を、聖書から聞いているからです。

 

イエスがまだ子どもの年齢だった時のエピソードは、ルカによる福音書に記述されています。この物語には、「お父さんも心配している」、「父の家にいる」と書かれ、父と子の話のように彩られています。

41 さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。42 イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。43 祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。44 イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、45 見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。
46 三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。47 聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。48 両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」49 すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」50 しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。51 それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。52 イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。

ルカによる福音書2章41−52節(新共同訳 聖書)

登場人物は、母と子どもなのに、父親がまるで全ての権限を持っているかのように綴られ直していることに注目して解読する必要あります。

この先は有料記事です。礼拝中のメッセージでは説明しなかった部分を追加し掲載しています。研究活動を支えていただけると嬉しいです。月1,000円の読み放題プランもあります(メンバーシップ登録をしてください)。

ここから先は

2,682字
この記事のみ ¥ 200

サポートいただけるととっても嬉しいです。ありがとうございます。活動資金として大切に使わせていただきます。感謝。